感情のひだを描く『なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?』

中村宏之(読売新聞東京本社調査研究本部 主任研究員)

 すっかり定着した感のある中国人訪日客の「爆買い」という言葉だが、爆買いの背後にある中国の社会や中国人の事情を深く掘り下げた本である。

 日本経済にとっては、日本を訪れる多くの中国人が大量の買い物をしてくれるのは、決して悪い話ではない。消費を下支えしてくれる貴重な存在だからだ。ただ、彼らが爆買いするのは、中国人が自国で売られているものには全く信頼を置いていないから、という指摘には複雑な思いがする。

 「日本製は安全、安心」という根強い信頼感があるためだが、現実にはこれらの大半は「メード・イン・チャイナ」である。それでも中国で売られているものが信頼できないということから、日本の店で売っているモノを求めるのだという。

 〈パッケージに日本語が書いてあって、日本のちゃんとした店で販売されているということに中国人は安心するのですよ。逆にいえば、もしメイド・イン・ジャパンと書いてあって日本語の表示があっても中国国内で売られているものは信用できない〉

 これほどまでに自分の国で売られているのを信用できない、最初からニセモノかもしれないと思いこんでいる感覚には正直、驚かされるが、最近の食品偽装などの問題を考えると、多くの中国人がそう考えても仕方がない、ということもある程度は理解できる。

日本の「普通の生活」に感動する中国人
空気、水、トイレ、レストランの店員…


 さらに、日本にきて初めて日本に良い印象を抱く中国人は多くおり、何気ない普通の生活に感動する人が多いという指摘は印象的だ。きれいな青空、おいしい水、清潔なトイレ、レストランの親切な店員の接客態度などだ。

 それまでの偏ったイメージからは想像できない日本の様子をみて、日本観が180度変わる人も多いという。本書は日本が大好きな中国の人が実名で多く登場する。彼らの「日本愛」に正直、ありがたさを感じる一方、同時に「へえ、そんなことに感動するの?」という驚きもあり、日本がいかに恵まれているかを彼らの反応からあらためて知ることができる。青空やおいしい水に純粋に感動する中国の人から逆に学ぶことは多い。

 冷静に考えてみれば、これは注目すべきポイントなのだろう。草の根レベルの人々が抱く互いの国へのイメージは重要で、それが結局、国と国との関係を規定することにつながるからである。

戸籍次第で、人生が変わる 
中国人のタブーにも肉薄


 もう一つ気付かされるのは、中国の社会ではいかに戸籍が大事かということである。中国に戸籍の問題があることは多少知ってはいたが、これほどまでに人々の生活を縛るものなのかという現実に、驚かされた。戸籍の内容によって、大げさにいえば一人一人の人生が変わるのである。子弟に都会で良い教育を受けさせたいと思う親にとっては切実な問題だ。中国の人々があまり語りたがらない問題についてもタブー視せず、問題を浮き彫りにした著者の取材姿勢に敬服する。

 本書は中国人の家族観や精神構造を知る参考書としても読むことができる。濃密な人間関係の中で社会が成り立っていることの良し悪しや、人と人が1回だけ会うという関係を「縁がなかった」と考える中国人と、「一期一会」を大事にする日本人との感覚は全く違うことなど、異文化理解の「勘所」を教えてくれる。同じアジアで、漢字を使う文化でありながら、日本とはかなり異質な社会であることを強烈に知らしめてくれる。こうした違いを頭に入れておかないと、国家レベルの政治や経済の交渉にも少なからず影響するだろう。
東京・秋葉原では国慶節の連休期間、多くの中国人観光客が家電販売店などを訪れ、買い物を楽しんだ。温水洗浄便座のブームは収まりつつあるという(中国新聞社)
東京・秋葉原では国慶節の連休期間、多くの中国人観光客が家電販売店などを訪れ、買い物を楽しんだ。温水洗浄便座のブームは収まりつつあるという(中国新聞社)
 訪日客の増加とともに、中国人のマナーの問題などが指摘されるが、著者の「社会を支えるインフラの質に大きく影響される」という指摘はうなずかされる。

 〈水道の水が出ないから手も洗わないし、いつもテーブルが汚れているから、自分も汚く使っていいと思ってしまう〉

 かつての日本も欧米からみればそうだったのかもしれない。インフラが整備されることで人々の行動様式も変化するという著者の見方はその通りだと思う。

 本書は数ある中国関連本の中でも、手軽に最近の中国の様子を知ることができる力作だ。欲を言えば、日本で大量に買い込んで中国に持ち帰った日本の製品が、実際にはどのように使われているのか、という点を詳しく知りたかった。多くの中国人旅行客を相手にする東京都心のホテル関係者は、「温水便座の正しい操作方法がわからないのか、トイレや部屋を水浸しにしてしまう人が多く、後始末に忙殺される」とぼやいていた。山のように買い込んだ日本の製品を、持ち帰った先できちんと使えているのだろうか。余計なことかもしれないが、そのあたりの事情も知りたいと思った。