島田裕巳(宗教学者)

 2007年6月に『公明党vs.創価学会』(朝日新書)という本を出したことがある。当時は、1999年からはじまった自民党と公明党の第一次連立政権が続いていた時代で、公明党を支持する創価学会の集票能力の高さが注目されていた時代だった。その際には、公明党と創価学会とが一体の関係にあることが前提にされていた。

 しかし、創価学会について研究してきた私の目には、必ずしもそうした前提が自明の事実ではないように映った。そこで、両者の関係についてその発端から追ってみたのである。

 たしかに、公明党が誕生した初期の時代には、間違いなく両者は一体の関係にあった。なにしろ、創価学会が1955年にはじめて地方議会に候補者を立てたとき、組織の内部に「文化部」というセクションを立ち上げ、候補者は文化部員として選挙に臨んだからだ。

 翌1956年には参議院議員選挙にも候補者を立て、当選者も出しているが、しばらくはそうした形がとられる。公明党の議員は皆創価学会の幹部で、1964年に公明党が結党された時点でも、当時第3代の会長をつとめていた池田大作氏が、事実上の党首と見られていた。マスコミも、公明党の政治方針を聞くときには、池田氏に取材した。

 その関係が崩れるのは、1969年から70年にかけて、創価学会・公明党が、自分たちを批判している書物の出版を妨害した「出版妨害事件」を起こしてからのことである。これによって、世間から糾弾された創価学会と公明党は、政教分離を推し進めた。公明党の議員は、創価学会の幹部を辞職し、池田氏も、政界へ出ないことを約束したのである。

 その際に、公明党は国民政党へ脱皮することをめざし、支持層を創価学会の会員以外にも広げようとした。しかし、それは難しく、結局、公明党は選挙活動については創価学会に全面的に依存する形が続き、それは今日にまで至っている。

 選挙のときのことがあるために、一般の人たちは、創価学会と公明党が一体であると感じる。しかし、人的な面で政教分離がはかられたことの影響は大きい。創価学会と公明党は別の組織になり、両者が協議する機会も限られている。創価学会が公明党の政策に口出しすることもほとんどなくなった。

 政教分離以降の公明党は、安保条約の即時破棄を打ち出すなど、革新寄りの姿勢を示したことがあるが、それはあくまで社会党や民主党と連携して中道革新路線による政権奪取を目指してのことで、創価学会の意向が反映されてのことではない。

創価学会本部別館
 逆に創価学会の側も、1974年に、日本共産党とのあいだで、お互いに誹謗中傷しないことなどを約束した「創共協定」を結ぶが、その際には、公明党にはそれを知らせないまま実行した。

 一度、組織が分離されると、時間の経過とともに、両者の関係は離れていく。公明党の議員も、創価学会のなかで活動した経験の乏しい人間がなるようになり、それに拍車をかけた。

 今回、安保法制をめぐって、創価学会の会員のなかに、公然と公明党の方針を批判する人間たちが現れたのも、こうした創価学会と公明党との歴史が関係している。

 創価学会としては、政教分離の建前がある以上、公明党の政策に公然とは干渉できない。公明党が、政権与党の座にとどまるために、自由民主党に対して過度に歩みよっても、それを是認するしかない。

 そうなると、公明党は、自民党の方針に引きずられていく形になる。いくら、公明党が歯止めをかけたと主張し、創価学会も『聖教新聞』などでそれを評価してたとしても、それに納得しない学会員が出てくる。一般の国民がそう思っているように、彼らにも公明党は自民党に利用されているだけに見えてしまうのだ。

 現在では、強力な集票能力をもつ圧力団体は、農協に代表されるように、消えつつある。そのなかで、創価学会は依然としてその力を有し、公明党を支えるだけではなく、自民党が政権の座に座り続けることを可能にしている。

 そうであれば、公明党が自民党と連立を組んでいることそのものが、今回の安保法制の実現を可能にしたとも言える。これはあまり指摘されていないが、創価学会の会員のなかにそれに気づいた人間たちもいることだろう。

 今、軒並み宗教団体は、既成宗教であろうと、新宗教であろうと、信者の高齢化などで危機にある。創価学会も、世代交代は実現したものの、若い会員は、年配の会員に比べて選挙活動に熱心ではない。

 池田が表に出なくなった影響もある。今回の出来事は、創価学会自体が一枚岩でなくなりつつあることを象徴しているのではないだろうか。