長田渚左(ノンフィクション作家)

 このところ2020年・東京五輪追加種目について意見を求められることが多かった。

 「オサダは何が入ると良いと思うか?!」

 皆さんは実に気軽に口にするが、これは難問中の難問だった。

 理由は比較できない物の比較だからだ。

 例えば、Aさんは幼い頃からスカッシュに親しみ、スカッシュとともに生きてきたとする。Aさんにとってスカッシュは特別なスポーツとなり、“スカッシュ命”となるだろう。

 一方、Bさんが野球が大好きな人ならば、“サーフィンなんて単なる遊びじゃないか?!”と見向きもしない… つまり人はそれぞれの環境で競技についての理解が著しく異なる上に、人の趣向はかなり保守的なのだ。

 加えてどんな競技にも特性としてメリットとデメリットが混在しているので、競技と競技の比較じたいが困難である。

 比較困難なものの中から幾つかを選べば、落選したところは強い不条理を感じてしまい、当選となった競技を応援する気にならないのが人情だ。

 だから後腐れなく選ぶのは、国民投票しかないと思っていた。ひとり1回の記名投票にして、上位ベスト5を選べば、すっきりしたと思う。

 1964年の東京大会では、日本中のいたる所に五輪旗が揺れていた。あらゆる日常品にも五輪マークが付けられ、開催を意識しない日はなかった。ところが今はスポンサーとの関係において五輪マークどころか、五色の色彩についても五輪を連想させるものは不許可である。

 だからせめて自分たちが投票して競技を選べば、親近感がわいたと思う。

 追加種目を投票で選ぶ選挙とすれば、それぞれの競技団体は何に入れようか決めかねている浮動票をもつ人々に熱心に競技を説明したはずだ。その情熱で、その競技を始めてみようという人もいるから、競技人口の増加にもなったかもしれない。

 新国立競技場の建設問題やエンブレムについても不透明さが目立ち、ごく一部の人々がすべてを決定してゆく感じなのは大変にマズい。改めて言いたい、五輪は誰のものなのか?!五輪は決して運動能力の優れたトップアスリートの華やかな舞台なだけではない。

 すべての人々、老若男女ひとりひとりのために五輪はある、そのことがオリンピック憲章に謳われていることを忘れてはならない。

 だから五輪の運営は、人々に愛される努力を怠っては成功に導けない。

 ところで来年IOCに提案される野球・ソフトボール、空手、ローラースポーツのスケートボード、スポーツクライミング、サーフィンの5競技18種目には共通点を感じ取っている人は私だけではないと思う。

 それは日本がメダルをその競技で獲得できる可能性が高いという思惑である。

 暗黙の了解といってもいい皮算用を考えたとき、今は亡き嘉納治五郎氏が怒るのではないかと思う。

 嘉納治五郎氏は、ご存知のように1940年の五輪招致(戦争のために返上)に大きく寄与した人である。

 一方で彼は“柔道の父”と呼ばれているように日本中に沢山あった柔術から暴力的で危険な部分を取り除き、柔術を柔道化した人である。彼は発明した柔道を心から愛し、柔道を世界の国々への布教に務めた。
 しかし忘れてはならないのは、五輪の招致には熱心だったが、柔道の五輪種目への導入には反対していたことである。

 柔道が正式種目になれば、日本ばかりがメダルを集中的に獲得してしまうから良くない、と考えていたのである。つまり五輪はあくまで自他共栄のために開催されるべきだから、柔道を正式種目にするには、まだ早い。もっともっと柔道を世界に広めて正しく対等な立場になってからの時期が良いと考えていた。

 そういう意味で、日本のメダル加算を計算しながらの種目選びには、嘉納は“賛成しかねる”と言ったのではないだろうか。

 すでに今まで五輪種目は満杯だと考えられてきたのに、「五輪アジェンダ2020」がまとめられ、東京五輪から立候補都市の減少を押えるために開催都市が追加種目を提案できる権利を得た。

 それに対して開催都市の活躍やメダル加算メリットだけを考えて良いものだろうか。二度目の東京五輪を迎える、仮にも先進国といわれる国ならば、メダル獲得ばかりに集中するのではなく、80年という時空を超えて、嘉納の精神を踏襲する種目提案があっても良かったように思うのは、私だけだろうか。つまり世界中の人々の未来のために自他共栄の精神からの種目提案である。そういう理念の提案を示すことが、未来に向かっての2020年東京開催を印象づけることなのではないかと思うのだが…?!