鈴木堅弘(京都精華大学非常勤講師)
 

絵画の認識において二元論的解釈は成り立たない

 
 昨今、世の中が「春画は芸術か、猥褻か」の議論で騒がしい。事の発端は、東京の永青文庫で開催されている春画展をめぐる記事である。週刊文春の編集長が、同誌への春画記事の掲載により、編集上の配慮を欠いたとして三カ月休養の処分を受けた。また、警視庁が週刊誌四社に風紀を乱す恐れがある記事を自粛するように勧告するにいたった。こうした事態により、再び「芸術―猥褻」の二元論が加熱したのである(刑法では「わいせつ」表記)。

 もっとも日本において、「芸術か、猥褻か」の議論は、近代以降、いつの時代でも途絶えることはなかった。「チャタレイ事件」(昭和二十八年)、「サド裁判」(昭和三十四年)、「国貞裁判」(昭和四十八年)と、作品への「芸術―猥褻」の解釈をめぐる裁判はくり返され、いずれも明確な答えが見出せないままに終わっている。

 それもそのはずで、そもそも各個人の文化事物への認識は、このような相対的二元論の解釈に落とし込むことができない。この真理は、言語学者ソシュールの「言語記号は恣意的である」の言葉に象徴されるように、すでに文化記号論などによって理論的に実証されている。

 たとえば、このことを単純化して言うならば、同じ絵画を複数の人が同時に見ても、その絵から読み取る意味は、各個人で異なる。あるいは、ある一人の人が、同じ絵画を過去と現在で二度見たとしても、その時々の状況や経験によって、絵画から受け取る〈意味〉が変わってしまうことはよくある。ピカソの絵を前にして、ある人はこれを芸術だと言い、別の人は落書きにしか見えないと言う。このような経験を、誰もが一度はしたことがあるであろう。

 つまり各個人は、絵画を見る際、個々の経験や知識にしたがって、それぞれ異なった〈意味〉を読み取っていくのである。これはどのような絵画であれ、一枚の絵に描かれた表象はどれも記号表現の集積であり、観者がどの部分(記号)に焦点を絞るかは、基本的には各々の判断に委ねられることを前提とするからである。
高い芸術性で注目を集めている「春画展」=東京都文京区の永青文庫
高い芸術性で注目を集めている「春画展」=東京都文京区の永青文庫
 この理屈を春画で例えるならば、一枚の春画を目の前にして、ある人は、裸体のふちを流れるように引かれた線(ライン)の美しさに取り憑かれるかもしれないし、また別の人は、あからさまな性表現に気恥ずかしさを感じるかもしれない。また性器の表象が描かれていたからといって、それを「淫猥」と認識するのか、あるいは「笑い」と認識するのかは、各個人の経験や知識にしたがっていかようにも変わる。つまり誰しもが春画から芸術の意味を読み取るわけではないし、あるいはまた誰もが猥褻の意味を読み取るわけではない。

 これは絵画をはじめ、文学、詩、映画など様々な作品は、そもそも記号の多層性によって多義的な意味を伝える原則にしたがって成り立っているからである。そして観者は、作品を目の前にしてそれら記号の多層性から、いかようにも意味を引き出してくることができるからである。

 このように考えれば、誰もが、ある作品解釈を一つの認識のみに落とし込むことはできない。となれば当然、誰も、「春画は芸術か、猥褻か」の問いに明瞭な答えを見出すことはできない。春画は、各個人の経験や知識にしたがっていかようにも判断できるからである。かりに、この二元論的な落とし穴にはまった人がいるとするならば、その人は解釈の対岸を行き来する堂々めぐりをくり返すだけであろう。

明治時代における美術と猥褻


 そもそも、日本の春画を「美術(アート)か、猥褻(ポルノ)か」とみなす二元論的視座は、コインの表と裏のように同根表裏の関係にある。いうならば、〈美術〉という概念がその場に立ち現れなければ、相対的に〈猥褻〉という概念も立ち上がらない。そうなると、日本におけるこうした二元論の成り立ちは、〈美術〉の概念の成立史と綿密に重なっていることが推測できよう。

 そこで、日本における〈美術〉の概念の成り立ちに着目するならば、「美術」という言葉は、明治六年(一八七三)頃、日本がウィーン万国博覧会への参加の際に、翻訳語としてはじめてつくられた。それ以降、美術の概念すら定まらないなかで、官僚機構を中心とした殖産興業と古器旧物の保護に関する美術政策が進められていき、官僚によって組織された最初の美術団体である竜池会が設立された。また明治十三年には内務省博物局により官展「観古美術会」が開催され、この美術展は視覚表現(絵画)のみを展示する初めての展覧会であった。こうした時代の流れのなかで、明治期の日本に〈美術〉への認識が徐々に浸透していったのである。

 ところが、この美術概念の成立と浸透の歴史に春画が巻き込まれることになる。その最たる出来事が、明治二十年代から三十年代にかけて繰り広げられた「裸体画論争」である。いわゆる「西洋裸体画は芸術か、猥褻か」を問う画壇論争である。こうした論争は、江戸時代より続く旧来の文化的価値と、西欧から移植した新来の価値観が衝突するなかで引き起こされた。明治二十二年の山田美妙による「裸胡蝶論争」に始まり、明治二十八年の「黒田清輝の『朝妝』裸体画問題」、そしてこれらの論争に呼応するかたちで、新聞ジャーナリズムや美術雑誌において「裸体画は芸術か、猥褻か」の論争がしきりにくりかえされていった。

 ところが、これらの論争は、どれも一見、裸体画における社会道徳上の問題を取り扱うように見せながら、実はその本意は「裸体画」から〈猥褻〉の認識を引き離すところにあった。この時期にこうした主張がくり返されたのも、日本の洋画家たちが、西洋裸体画を〈猥褻〉な表現とは一線を画す美術作品としていち早く世に認めさせる必要に迫られていたからである。それはまさに〈美術〉と〈猥褻〉を明確に区別し、前者に裸体画を結びつけ、確固たる美術概念を世の中に植え付けることを狙いとした。しかもそこには裸体画から猥褻の価値認識を引き離す際の相対的事物として、春画が利用されたのである。このことは、明治の洋画家中村不折の言葉からも、明確に知ることができる。

 元来當局者がかく裸体に対して厳しい制限を設けるのは、春画と裸体画とを混同して居るのに原因すると思ふ。春画は猥褻を主としたもの、一方は神聖な目的の為めに書いたものを、味噌も糞も一所にするに到つては、殆ど何と評しやうもない。(中村不折『畫界漫語』〈明治三十九年〉)

 つまり、裸体画を新来の西欧の芸術表現として世に認知させるためには、旧来の日本の世俗表現である春画を猥褻の彼岸へと追いやる必要があったのだ。裸体画の芸術的な至高性をより強調するためには、相対的に春画をその地位へ落とし込まなければならなかったといえよう。こうして明治二十年代から三十年代にかけての時代に、春画は猥褻画と見なされるようになった。いわば、春画を猥褻の概念で捉える社会的慣習がつくられたのである。このようにみていけば、「美術か、猥褻か」という議論自体が、美術という近代概念(モダニズム)がその場に移入されてはじめて起こりうる問題である。言い換えるなら、〈美術〉という概念がその場に入ってこなければ、〈猥褻〉という概念もまたその場には立ち上がらない。くり返すが、双方の概念は表裏一体の関係にある。つまりこの議論自体が、すでに極めてモダニズム的な発想に基づいており、春画が盛行した江戸時代にはない考え方である。
 

展示とオリエンタリズムの亡霊


 ところが現在の日本では、このモダニズム的な発想が、さらにねじれを起こしつつある。春画を〈美術(アート)〉の概念と結び付ける社会的慣習が形成されはじめている。その要因の一つとなったのが、二〇一三年にイギリスの大英博物館で開催された春画展であろう。同展覧会では、そのタイトル「Shunga sex and pleasure in Japanese art」が示すように、日本の春画を明確に美術作品と見なしている。ところが、考えてみれば、そもそも「アート」は、ヨーロッパという場でつくられた西洋概念である。しかも、その概念を西欧においては「他者」である日本の、前近代の産物である春画に当てはめる考え方に少なからず違和感を抱かざるを得ない。春画がアートであるのか、ないのかという議論はひとまず棚上げしたとしても、なぜ大英博物館の春画展において日本の春画が「アート」の範疇に組み込まれたのかという疑点は看過できない。

 たとえば同展覧会では、日本の春画を理解するうえで「検閲」や「パロディ」の項目を立てた。にもかかわらず、その全体の枠組みとしては、春画を日本美術のなかに収めている。

 ごく素朴に考えて、日本人が認識する美術作品のなかで、「検閲」の対象になったものがあるだろうか。それこそ黒田清輝の油絵『朝妝』であろう。しかしこの作品も、結局は美術作品として世相に認められた。また別の観点に準ずるならば、春画を検閲の対象として捉える行為そのものが、先験的に春画を猥褻と見なす眼差しを発端としているのではなかろうか。一方、パロディという考え方も、西欧からの借り物であるにもかかわらず、そうした見方を日本の美術作品にどれだけ当てはめて考えることができるだろうか。結局、春画を理解するうえで「検閲」や「パロディ」の見方を用いれば用いるほど、西欧が作り出した「美術(アート)」の範疇から遠ざかる。

 大英博物館の春画展が示したこの矛盾を、いったい我々はどのように処理したらよいのであろうか。その疑問は尽きないが、一点、言えることは、西洋にとって他者である日本の春画が、ヨーロッパの主要博物館の「場」で、「アート」の範疇に組み込まれた背景には、西洋が東洋に抱く「オリエンタリズム」の亡霊を見ざるを得ない。「オリエンタリズム」とは、ずいぶんと使い古された言葉である。ただそこには、東方の珍奇でめずらしい事物に対する西欧が抱く好奇のまなざしがあり、その裏には、東洋の事物や価値観を自前の概念範疇に取り込む欲望が秘められている。このバイアスこそが、日本の春画を容易に「アート」の概念と結びつけさせ、自明の理の内に矛盾や違和感を隠し込んだにちがいない。しかもその他者への眼差しは、「芸術(アート)か、猥褻(ポルノ)か」の問いさえも立てることができない境地へと春画を引き上げた。

 もっとも現在、西洋の主要な美術館や博物館は、諸地域の文化を地球規模の普遍的視座のもとに均一(グローバル)化する文化平行主義を展示に取り入れることで、従来のオリエンタリズム的思考を乗り越えようと試みている。ところが、この行為がかえって西欧において「オリエント」への見方を浮き上がらせてしまい、異質なもの、他者であるものを展示した美術館や博物館の革新性や中心性を指示することで終わってしまう。このことは、日本の春画展のキャッチフレーズ「世界が、先に驚いた。」からも明確に知ることができる。もっともこの皮肉は、そもそも諸地域の文化事物に対する認識は、境界や辺境を越えて均一化できるものではないことを前提とするがゆえに引き起こされる。つまり展示される諸地域の文化物は、それぞれの歴史や風土に依拠した文化的差異に基づき、けっしてグローバルかつ西洋的な概念範疇に閉じ込めることはできないのである。

 その点で、大英博物館での春画展と、日本での春画展は、同じ展示という行為ながら、その意義は大きく異なる。日本での春画展示は、文化の当事者であるがゆえに、オリエンタリズムというバイアスの助けをかりることができない。われわれは面と向かって自らの過去の歴史と向き合わなければならず、もしその認識に矛盾点や違和感があれば、自己崩壊を招きかねない。つまり日本社会にとって春画は、「他者」ではないのだ。そのため当然、自らの歴史に潜む魅惑の秘め事に直面したときに、その文化を直視することへの躊躇と自問自答をくり返さざるを得ない。昨今の日本社会における「春画は芸術か、猥褻か」の問いは、そうした当事者ゆえの苦闘を端的に示しているのではなかろうか。

 もちろん、この問いに答えを見出すことはできない。おそらく永青文庫は、そのことを百も承知で春画展を実施したであろう。彼らは日本社会が自らの歴史や文化に直面したときに生じる躊躇や戸惑いを乗り越える勇気をもって、春画の展示に踏み切ったにちがいない。その英断と実行は、他者である大英博物館の春画展とは、本質的に異なる。

 最後に、この二元論的な問いに明確な答えを見出せないならば、われわれ自身が自らの目で、おのれの経験や知識を通じて、春画の本質を見定めなければならない。この愚問に、足もとをすくわれている時間(ひま)などないのだ。展覧会には期限がある。春画の実物を自らの目で見定めるチャンスは、限られている。そのことを忘れてはならない。