拳骨拓史(作家)

 韓国大統領による「反日発言」がかまびすしい。

 とは言え歴史をみれば、朴槿惠、李明博、盧武鉉以前にも、歴代韓国大統領の多くは、日本に「謝罪と賠償」を求めることが一種の伝統化していることに気づく。いわば“反日の金太郎アメ”なのだ。


(1)李承晩 初代~第三代韓国大統領。在任期間=一九四八~一九六〇

〈朝日新聞を通じた新年メッセージ〉
 日本の皆さん新年おめでとう。
 韓国人は善良な皆さんに対してなんの呵責ももっていないが、日本人もまた韓国人に不平を抱いていないと思う。過去四十年の間、韓国人がうけた痛手は日本軍国主義者の罪に帰すべきものであって、日本人もまた彼らの政府のあとで同じように被害をうけたものと思う。(中略)われわれは隣人同士であり、両国民はお互いに仲良くつきあわねばならないことを日本人は忘れてはならない。(一九四九年一月五日)

 李承晩(イ・スンマン)韓国大統領(一八七五~一九六五)が就任間もない時期に、日本に宛てたメッセージである。反日で有名になる李承晩大統領も、当時はまだその牙を見せていなかった。

 李承晩は若くして反日活動団体である独立協会に身を投じ、投獄。釈放後に渡米し、朝鮮独立のための宣伝活動をおこなった。

 一九一九年、上海の大韓民国臨時政府(注 国際的には承認されず)の大統領に就いたが、一時期上海にわたっただけでほとんどをアメリカですごし、第二次世界大戦後に韓国大統領に就任。

1950年6月の朝鮮戦争勃発直後、金浦空軍基地に到着したダグラス・マッカーサー元帥を迎える李承晩・韓国初代大統領(右)
1950年6月の朝鮮戦争勃発直後、金浦空軍基地に到着したダグラス・マッカーサー元帥を迎える李承晩・韓国初代大統領(右)

親日派を断圧


 李承晩ライン(一九五二年に李承晩大統領が韓国の主権があると宣言した水域を囲む線。日本側はこれを認めず、ラインが廃止されるまでの十三年間に日本漁船の捕獲事件などが起こり、日本人抑留者は三千九百二十九人、死傷者は四十四人を数えた)を設定して日本と対立した。

 日本人抑留者たちは人間として満足な生活をする権利すら与えられず、寝室はゴザが敷かれた部屋に毛布が一、二枚程度与えられ、食事は茶碗一杯、麦飯に具なしの味噌汁だけがおかずであった。小アジの煮付け一匹が三人分の食事として出されることもあり、健康を維持するカロリーを与えられることはなかった。

 抑留者たちは家族が送ってくる差し入れ品を金に替え、食糧や夜具などに交換したが、この差し入れ品も、韓国警察によって中身が抜かれたり、届かなかったりした。

 当時、李承晩大統領が語り、韓国で流行語となったのが「アメリカは余り信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本は必ず再起する。注意せよ!」というものであった。

 アメリカ生活の長い李承晩は日本統治の実際を知らず、日本統治に協力した人々を「親日派」として弾圧した。

 日本語で「親日派」といえば、日本について詳しかったり、日本に対し好意をもつていたりする人を意味するが、韓国語ではこのような意味の場合は「知日派」を使い、「親日派」は使わない。

 「親日派」は日本の植民地支配に協力した者を指し、「売国奴」に近い意味で用いられ、反日教育を実施して韓国国民の日本への敵愾心を強くした。

 李承晩大統領はライバルの暗殺や不正占拠などを繰り返し、反共独裁政治をおこなったが、野党や国民の批判を浴び辞任、ハワイに亡命。晩年は貧困と孤独にあえぐ悲惨な末路をたどった。

〈韓国スポークスマンの発表〉
 李承晩大統領は共産主義者が民主主義政府および国民に比べていかに残忍であり、独裁的かつ野蛮であるかを教えるとともに、日本帝国主義の侵略性およびその韓国に対する悪意にみちた態度を生徒に教えるよう命令した。
 またこの新指示は、韓国経済を独占しようとする日本の陰謀に対する対抗措置を準備するため、教師および大学教授に命じ、生徒を激動させようとするものである。(一九五四年十月十四日)


〈「三・一事件」四十一周年祈念集会でのメッセージ〉
 日本は戦時中、強制的に日本に送られ、軍事産業で働かされた二百万の韓国人に対する補償の義務がある。岸首相は最近の訪米中、米国に補償支払い援助を要請したといわれるが、外国に援助を求めるのは理由のないことで、補償については日本が全責任を負うべきである。(一九六〇年三月一日)

(2)全斗煥 第十一~十二代韓国大統領。在任期間=一九八〇~一九八八

 全斗煥(チョン・ド・ファン)は朝鮮戦争中に陸軍士官学校に入学し、一九七九年の朴大統領暗殺事件の混乱を処理して実権を掌握。大統領を辞任した後、不正蓄財などが発覚し逮捕された。

 全斗煥の父親、全相禹は一九三〇年代後半に日本への高い忠誠心があるとの理由から、任地である内川里の里長に抜擢され、農民たちに「皇国臣民化」を説いてまわり、日本への供出物の確保に情熱を傾けた。

 その後、中国の吉林省松花江流域の農村に居をかまえたが、そこで朝鮮独立運動家を取り締まるべく日本軍の案内をおこなって大金を得、その後韓国へ戻って暮らしていた。

 全斗煥韓国大統領もその影響を受け、早稲田大学教授・松原正氏と会った際に、満洲などにいた日本へのテロ勢力を討伐するための歌である『討匪行』を歌詞ひとつ間違えずに歌ったと言われている。

まるでお化け屋敷


 全斗煥自身、「私の幼いころ、将校たちが軍刀をつるし、皮の長ぐつをはいて部隊を指揮する姿とか、さっそうとした乗馬姿とかをよく見かけて、すっかりあこがれてしまい、めしも食わずに追いかけていっては訓練に見とれていたものです」と述べ、大東亜戦争勃発後は、日本の少年航空兵になりたいと熱望していた。

特別機で来日した全斗煥韓国大統領と李順子夫人=羽田空港、1984年 9月 6日
特別機で来日した全斗煥韓国大統領と李順子夫人
=羽田空港、1984年 9月 6日 
 大統領になってからは、彼が父とも呼ぶ前任の朴正熙元大統領が日本から多額の支援金を受けていたことが、「親日家」だとして批判される理由になっていたため、全斗煥大統領は「反日」と「親日」を超えた「克日」という新しいスローガンを用意した。

 その事蹟というべきものが、一九八七年に建設された韓国の独立記念館である。数十億円もの寄付金を募り、約五百億ウォンで建てられた独立記念館は、日本軍による銃殺刑や拷問などの様子が蠟人形をつかって虚実とりまぜて再現されており、訪れた人々の多くは口を揃えて「まるでお化け屋敷だ」という悪趣味なものとなって仕上がった。

 一九八一年には、「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と、全斗煥自身、韓国の非を認める発言もしていただけに、独立記念館を建設したことは日韓関係の未来を考える上で残念でならない。

〈昭和天皇に拝謁した全斗煥大統領の宮中晩餐会での挨拶〉
 われわれ両国には、「雨降って地固まる」との共通のことわざがあります。(中略)われわれ両国の間にあった不幸な過去は、今やより明るく、より親しい韓日間の未来を開拓していくうえで、貴重な礎にならねばならないと信じております。(一九八四年九月七日)

 全斗煥韓国大統領は昭和天皇に拝謁した最初の韓国大統領となった。昭和天皇との拝謁については、日韓両国から激しい批判があったが、その際、昭和天皇より過去の歴史に対する謝罪の発言を引き出すよう強く日本側に要望していた。
 宮中晩餐会の前日、全斗煥は安倍晋太郎外務大臣と会談し、「弱い立場にある人間は普通、富める人、強い人に対してひねくれを感じ、先方が寛大にしても時として誤解をもつ。従って強い人、富める人は多少損をしても寛大な気持を持って欲しい」「韓日の(過去の)誤解は大部分そういうものだったと思う」と述べたという。(『読売新聞』一九八四年七月十日)

 昭和天皇の御言葉を受け、韓国の民族主義団体「光復会」(日本統治時代の抗日、独立運動家とその家族で構成)は、「過去の歴史の張本人である日本の天皇が不幸だった過去に心から遺憾の意を表明し謝罪した。われわれは日本側の反省と謝罪を喜びをもって受け入れる。この謝罪は、われわれの歴史的勝利を意味する」などと反応を見せたが、これ以降、韓国政府は大統領が代わるごとに天皇陛下に謝罪を要求しようという悪癖を生むようになった。

(3)盧泰愚 第十三代韓国大統領。在任期間=一九八八~一九九三

 天皇陛下の御言葉を政治的なかけ引きに利用しようとする動きは、全斗煥の後任である慮泰愚大統領(一九三二~)の時代には始まっている。
盧泰愚大統領
盧泰愚大統領
 『東亜日報』では天皇陛下が過去の歴史について直接謝罪を表明しなければ、またその内容が韓国政府の期待にそぐわない場合は、盧泰愚大統領の訪日時に天皇陛下への訪韓招請を行わないと報じた。

 この韓国政府の動きにあきれた小沢一郎自民党幹事長(当時)は、「反省しているから(経済面などで)協力している。これ以上、土下座などする必要があるのか」と反発したが、マスコミなどから突き上げられ、謝罪へと追い込まれている。

〈慮泰愚総裁と日本人記者団との懇談形式での会見〉
 私の前任者(全斗換・前大統領)の訪日時、昭和天皇が不幸な歴史に遺憾の意を表明した。両国間に不幸なことがあったことはだれもが認識している。
 加害者がだれであり、被害者がだれであったかについても共通の認識がある。加害者が被害者に「すみません」とか慰めの言葉をいうのは当然のことだ。
 韓国側からいうと謝罪がはっきりしない。被害者は加害者の真心を疑わざるを得ない。真心から「すみません」といってくれれば被害者としても感動して「いや、結構です。これからうまくやりましょう」といえるのではないか。
(中略)
「間違っていた」「すみません」というおおらかな心を見せれば、韓国だけでなく中国や東南アジアが日本に対する認識を変える契機になる。力量があり、強い方がおおらかな心を見せることが必要だ。
(天皇の「お言葉」については)天皇の名前にかけてというのではなく、皆さん(日本人記者)や日本の国民と話をしてみましょう。そうすれば日本がどうすれば正しいのか自明のことだ。
 そんな次元から自然に解決されれば天皇訪韓もうまく解ける問題ではないか。(一九九〇年五月十五日)

〈宮中晩さん会での慮泰愚・韓国大統領の答礼あいさつ〉
 日本は陛下のご即位によって、平成の新しい時代を迎えました。本日、陛下と歴史的な交歓をもち、天皇ご即位の祝賀の挨拶を直接お伝えできますことを意義深く考えます。
 また、日本が戦後の廃虚から立ち上がり、全世界がうらやむ平和で繁栄する国家を築いたことに、賛辞を送ります。私は平成時代が日本ばかりではなく、私どもが生きる東アジアと世界の平和と繁栄、友誼を増進する時代になるものと確信いたします。
 遥かな古代から今日に至るまで、韓日両国は最も近い隣人として親しんで来ました。両国の国民は狭い海峡を越えてお互いに往来し、相手国の文化形成に大きな影響をおよぼし合いました。両国間には歓迎すべきことも数多くありました。しかし、わが国民は近世に入り、苦痛を受ける一時期を経験しなければなりませんでした。
 両国間の長い善隣友好の歴史から見るとき、暗い時代は相対的に短い期間でした。歴史の真実は消されたり忘れられたりすることはありませんが、韓国国民はいつまでも過去に束縛されていることはできません。
 われわれ両国は真正な歴史認識に基づいて過去の過ちを洗い流し、友好協力の新たな時代を開かねばなりません。日本の歴史と新しい日本を象徴する陛下がこの問題に深い関心を示されましたことは、きわめて意味深いことです。
 今やわれわれ両国が近くて近い隣人、信頼する友邦として、両国関係を発展させるのに障害となってきた過去の歴史の影を消し、残滓を取り除くためにわれわれすべてが努力しなければなりません。そうすることによって、両国間の望ましい関係をわれわれの子孫に受け継がせなければなりません。(一九九〇年五月二十五日)

 一九六五年の日韓基本条約によって、過去の賠償はすべて完了していることは言うまでもないが、謝罪についても盧泰愚大統領が明確に「解決した」と断言している。

 日本はすでに、謝罪も賠償も終わっているはずだが、彼らは未だにこれを要求しつづけている。

 金泳三は一九五四年に国会議員に当選以来、ながく野党議員を経験するが九〇年に与党に合流。九三年に十三年ぶりとなる文民大統領となった。だが政権末期には通貨危機がおき、韓国経済を迷走させたまま任期を終えた。

(4)金泳三 第十四代韓国大統領。在任期間=一九九三~一九九八

〈金泳三韓国大統領による衆議院本会場での国会演説〉
 一八九四年、韓(朝鮮)半島では日本と中国間の戦争があった。日清戦争で勝利した日本は、ついに韓半島を併合した。一九四五年、韓国は解放されたが、南北に分断され、同族相争う戦争を体験した。韓国は今も地球上の最後の分断国家として、民族的苦痛をなめている。
 私と、わが国民は、一世紀にわたった諍いと葛藤の歴史に終止符を打ち、真の友情と協力の新しい歴史を開いていくことを提起する。(中略)韓日両国国民は心の扉をすっかり開かなければならない。過去のしこりはきれいに洗い流さなければならない。(一九九四年三月二十五日)
韓国の金泳三大統領と握手する橋本首相 1996年 3月 2日
韓国の金泳三大統領と握手する橋本首相 1996年 3月 2日 
 李承晩韓国大統領然り、就任当初はかならず過去の歴史について問題としないという姿勢をとるのが歴代韓国大統領の御家芸である。

〈金泳三・韓国大統領の朝日新聞社との会見〉
 再三強調してきたように、日韓関係を未来志向に発展させていくには、正しい歴史認識の確立が何よりも重要だ。それには、過去を直視する土台の上に、未来に向かって協力していかなければならない。過去の歴史をウソで美化したり、不問にしたりするのは、日本自身にとっても決してためにならない。(一九九五年八月九日)

 金泳三大統領の時代には、細川首相が韓国併合について謝罪を述べたのに対し、永野茂門(一九二二~二〇一〇)法務大臣が「日本で言う大東亜戦争というものが、侵略を目的にやったか。日本がつぶされそうだったから生きるために立ち上がったのであり、かつ植民地を解放する、大東亜共栄圏を確立するということを、まじめに考えた。私は南京事件というのは、あれ、でっち上げだと思う」と発言。永野法務大臣は就任後、わずか十一日で更迭されることになったが、韓国の世論は沸騰した。

〈江沢民中国国家主席との会談〉
「自分の就任後、侵略行為と植民地支配によって我々に残酷にしたことに対して日本は反省し、歴史を直視するなかで未来に向けて進むことを繰り返し明らかにしてきた。日本は歴史認識を正しくすべきだ」
「日本側の妄言が続いており、建国以来三十数回続いている。今度こそ(日本側の)悪い癖を直してみせる」(一九九五年十一月二十四日)

 この日本の「悪い癖を直してやる」という金大統領の発言は、日本側を怒らせることになった。

 特に一九九五年は韓国の光復(独立)から五十周年の節目(実際に大韓民国が樹立されたのは一九四八年)となるため、日本の朝鮮統治時代のシンボルというべき旧朝鮮総督府府庁を解体する行為に及んだ。

 この建物は花崗岩によって出来ており、近代建築の観点からも文化的見地からも取り壊しに反対する声は少なくはなかったが、日帝残滓を清算するという政府方針と世論におされ、一部を残して破壊されることになった。

 また一九九五年には竹島に接岸施設を設置したほか、軍隊を常駐化させるなどの要塞化を推進。現在まで続く竹島問題を引き起こすことになった。