池田清彦(生物学者)

 川島なお美さんが、肝内胆管がんで亡くなった後、医師の近藤誠さんが文藝春秋にコメントを寄せた内容について、賛否両論の意見が飛び交っているようだ。近藤さんの話によると、川島さんはがんの診断を受けた1ヵ月後の2014年9月に近藤さんの「セカンドオピニオン外来」に来て、がんの治療について相談をしたという。その席で、川島さんは「10月から始まる稽古に備え、暫く様子を見ることにしたい」と言い、「そんな仕事優先の私は間違っていますか」と尋ねたようだ。川島さんは「切除手術も抗がん剤治療も受けたくないが、初発病巣だけは何とかしたい」と強く願っていたので、近藤さんは「ラジオ波焼灼術」を勧めたという。 

 然るに、川島さんは4ヵ月後の2015年1月に切除手術を受け、7月に再発、抗がん剤治療を拒否し、9月に亡くなった。近藤さんは手術を受けなければもっと長生きできたと主張し、抗がん剤治療を拒否したのは賢明で、抗がん剤を投与されていたら、死の直前まで舞台に立つことはできなかったろうと述べたのだ。

 これに対し、何人かの医師から猛烈な非難が浴びせられた。抗がん剤が効かないという主張は間違っているとか、ラジオ波焼灼術は川島さんのがんに対しては良い治療法ではないとか、果ては、川島さんは亡くなっているとはいえ、個人情報を公表したのは医師の倫理に反するといったものまでいろいろあったわけだが、主要な論点は、診断してすぐに切除手術を受けたら助かっていたかも知れず、近藤医師のセカンドオピニオンにより手術をためらった結果、手遅れになったというものだ。まあ、医者の立場からすれば、がんの手術をする人がいなくなってしまうと、かなりの外科医は飯の食い上げになるので、手術をしてもらった方がありがたいし、抗がん剤も使ってもらったほうが儲かることは確かだけれどね。ともあれ、川島さんは一人しかいなかったわけで、様々な治療法の良し悪しを川島さん個人で比較することは原理的に不可能なので、何を主張しても所詮水掛け論であることは間違いない。

 問題は、個々人によって最適な治療法は異なるのだけれど、何が最適かをあらかじめ知ることができない点にあるのだ。私見によれば、がんと診断されたものの相当数は近藤さんの言う所謂「がんもどき」であることは間違いない。近藤さんの著書を読むと、がんの治療を受けずに長生きしている事例がいくつも紹介されており、ウソでなければ、こういったがんは悪性度が低いのだろう。

 私の狭い個人的な知見でも、がんと診断された後、病巣が大きくも小さくもならずに、10年以上元気な人や、がんと診断されて、手術を強く勧められたが、「いやだなあ」とためらっているうちにがんが消えてしまった人もいるので、がんと診断された病変の全てが、放置しておくと手遅れになって死に至るという言説だけは間違っていることは確かである。

 医者のなかには「がんもどき」の存在を認めても、それは例外的なものだと主張する人もいるが、たとえば、がんと診断された10000人を放置したらどうなるのかといったデータは取りようがないので、「がんもどき」と本物のがんの割合は分からない。ただし、近藤さんは「がんもどき」は放置しておいても本物のがんにならないかのような口ぶりだが、これは同意しかねる。「がんもどき」が増殖途中の突然変異によって転移能力を獲得することは、可能性は低いかもしれないが、ありうると思う。

 ごく初期の段階から転移能力を持っているがん、終生転移する能力がないがん、分裂して増殖していく途中で転移能力を獲得するがん(いつの段階で転移能力を獲得するかはケース・バイ・ケースであろう)の3タイプのがんがあるのだろう。手術に適応的ながんは最後のタイプのうち、まだ転移してなくていずれ転移する可能性があるものだけである。

 問題は、現在の技術水準ではこれらのがんの違いを調べる方法がないことである。近藤さんは多くのタイプのがんは、最初のタイプか二番目のタイプで、最後のタイプのがんはほとんどないと考えているようである。この見解が正しければ、最初のタイプは手術しても手遅れで、二番目のがんは手術をしないほうがいいので、がんは放置しておいた方が、平均的な生存率は高いということになる。

 確かに、多くのがんで、検診群と非検診群の死亡率に差がないことから考えて、近藤説はおおむね正しいのだろうが、手術をしたほうが正解だったがん患者がいることも間違いないと思われる。同じように、手術をしないほうが長生きできた人もいることもまた、間違いない。今の技術水準では「がんもどき」と本物のがんの区別ができない以上、どちらに賭けるかは運みたいなものだ。

 手術を受けて再発も転移もせずに生き延びている人は、手術を受けてよかったと思うであろうし、手術を受けても旬日を経ずに死にそうな人(あるいは死んだ人の家族)は、手術などしなければ良かったと思うであろう。反対に、手術をせずに生き延びている人は、手術をしなくて本当に良かったと思うであろうし、手術を受けずに悪化して死にそうな人は、思い切って手術をすれば良かったと思うかもしれない。いずれ、「がんもどき」と本物のがんを見分けるマーカーが発見されると思うが、それまではどれが正解かは誰にも分からないのだ。現時点で、この問題に関しては、すべての人に当てはまる正解というものはない。

 分かっていることは手術をしたり抗がん剤治療をしたりすれば、時間とお金がかかることと、治療を受けた患者さんは治るにせよ治らないにせよ、多少は苦しいことだ。そして更に確かなことは、何をしようといずれ人は死ぬことだ。

 がんと診断された時、どんな治療を選択するか(あるいは治療をしないで様子を見るか)は、何人かの医者の意見を聞いて自分で決めるほかはないと思う。残念ながら、川島さんはがんの発見後1年1ヶ月で亡くなってしまったが、一般的に言って胆管がんは予後の悪いがんで、別の選択をすれば、もっと生きられたかどうかは誰にも分からない。最終的にご自身で決断されたようだから、それでよろしいのではないですか。