下川正晴(毎日新聞元論説委員)

 10月中旬、約1年ぶりにソウルに出かけた。最近の僕のフィールドである「歴史ルポルタージュ」取材のためだ。1週間の滞在中、多くの韓国人に会ってインタビュー取材をしながら、韓国史に関連する6カ所の「博物館」も参観した。予想以上に惨々たる展示内容だったが、植民地時代の展示をめぐって進展している内容も見られた。しかし、総じて言えば「田舎民族主義の展示場」と言うしかない。どうしてこういうことになったか。日本側が警戒しなければならないことは何か。毎日新聞元ソウル特派員(1989~1994)の体験も踏まえて報告したい。

孝昌公園(龍山区)


 ここにはソウルの「歴史博物館」として、代表的な「金九記念館」がある。金大中政権時代に出来た。2階建ての立派な建物だ。金九(1876~1949)は、「大韓民国臨時政府」時代からの独立運動家だ。テロリスト集団「韓人愛国団」の親玉でもある。僕がこの記念館に来たのは2度目だ。今回は、日韓間でさらに問題になりそうな「大韓民国臨時政府」に関連する展示内容を再確認するために来た。先日、パク・クネ韓国大統領が中国の「抗日勝利70周年軍事パレード」に参加した際、上海の「臨時政府庁舎跡」を訪れたのは記憶に新しい。

 韓国が憲法前文に、この「臨時政府をルーツにすると記述するのは、1987年(昭和62年)の改正からである」(荒木和博「海外事情」2015年5月号)。それまでは「3・1運動」(1919年)と「4・19民主化革命」(1960年)しか書いてなかった。この憲法前文が日本で注目されたのは、2012年5月24日の大法院(最高裁に相当)判決が、以下のような判断を下したからである。
 <憲法前文で「3・1運動によって建立された大韓民国臨時政府の法統」を「継承」しているとうたっている以上、1919年に起きた「3・1運動」が抗った「日帝強占」は、そもそも不当かつ不法であり、それ以降の国家総動員や戦時徴用も当然、「日本の国家権力が関与した反人道的不法行為」、あるいは「植民地支配と直結する不法行為」となる。つまり、問題は「戦時」徴用ではなく、それ以前からの「日帝強占」そのものにあるというのである。(浅羽祐樹「SYNODOS」2013・8・27)>

 このような韓国側の主張の根拠となるような展示が、この記念館で行なわれているのだが、日本人にとっての観覧ポイントは、臨時政府側すなわち韓国独立軍が一戦も日本軍と戦火を交えずに、1945年8月15日の「終戦」を迎えたことを示す地図が掲示されている点だ。「韓国が戦勝国になれなかった」という対日コンプレックスの根源にある歴史的事実が、ここで確認できる。


撮影:下川正晴
「李奉昌(イ・ボンチャン)義士」の銅像(撮影:下川正晴)
 記念館の外にある「李奉昌(イ・ボンチャン)義士」の銅像(写真)にも注目したい。

 この人物は、1932年1月8日、東京・桜田門の警視庁前で、昭和天皇の車列に手榴弾を投げつけた。幸い、手榴弾は車列の前方に落ち、昭和天皇は難を逃れたが、随員1人が負傷した。李奉昌は金九の秘密組織「韓人愛国団」のテロリスト第1号である。

 この銅像のデザインがものすごい。写真のように、まさに爆弾を投げつけようという姿だ。僕はこれを初めて見た。心底驚いた。現代韓国人は、これがいかに「国際的に無礼な銅像」であるのか、分からないのだ。駐韓日本大使館も気づかないまま「放置」してきたのだろうか。

 この銅像は1995年11月6日に建てられた。「建立文」に、以下のような記述がある。

 「国が日帝によって強占された時、祖国の光復のために身を投じた李奉昌義士の気高い民族魂と独立精神は、民族の胸に永遠に燃え盛っている。義士は元凶である日王・裕仁を爆殺除去することが、まさに日帝の侵略と蛮行を全世界に告発し、独立を招来する道だと信じて上海に渡り、金九先生に挙事を願い出て、許諾を得た。1932年1月8日、東京で観兵式を終えて戻る裕仁に爆弾を投ずるも、命を奪うことはできず、現場で逮捕され同年10月10日、市ヶ谷刑務所で絞首刑になり、32歳で殉国した。義士の偉大な愛国思想と独立精神を讃え、光復50周年と義挙63年を迎え、このに銅像を建立する」

 昭和天皇(1989年死去)の名前を碑文に明記した上で、こんな途方もないデザインの銅像を、1995年になって建てる韓国側の無神経さ、その国際的意味はきわめて重大だ。

 「建立文」には「東亜日報社」後援とある。「韓国の新聞はこんな下劣な国威発揚までやるのか」と、元同業者の僕は思った。これとは別に「銅像建立に意を集めた方」との碑文もあり、ここには「李奉昌義士義挙ならびに殉国60周年記念事業推進委員会会長」として、朴泰俊氏(元国会議員)の名前がある。これも看過できない。朴氏(2011年死去)は、浦項製鉄の創業者であり、第32代首相も務めた知日派だ。「鉄鋼王」「日韓政財界の架け橋」と呼ばれた韓国保守政界の重鎮である。日韓の「知られざる歴史」がここに脈々と波打っていることに、私たちは気がつくべきだ。

尹奉吉記念館(瑞草区)


 地下鉄「江南」駅から新盆唐線に乗り、次の「良才市民の森」駅で降りて、徒歩5分の場所にある。孝昌公園に高齢者が多いのと対照的に、この記念館は歴史学習のために、教師から引率されて来た中学生の姿が目立った。

 「金九記念館」と同様に2階建てだが、建築はこちらが1989年と早い。ソウル五輪の翌年であることに注目したい。五輪を契機に韓国ナショナリズムが高揚した。その風潮の中で建立されたのである。韓国独立後、李承晩大統領と対立した左派の政治家である金九の記念館が、金大中政権時になって建てられたことと比較すると、尹奉吉は包括的な「国民の歴史」の中で、不動の「義士」として称揚されていることが分かる。

撮影:下川正晴
全身に24個の弾片を浴びて死亡した白川(義則)大将
 尹奉吉(ユン・ボンギル)とは何者か。1932年4月29日に上海で起きた「上海天長節爆弾事件」の犯人だ。金九の「韓人愛国団」のテロリスト第2号である。この記念館の展示も、外国人の目から見るとやり過ぎだ。1階右部屋の展示が特にひどい。

 爆弾攻撃を受けて死傷した日本人の写真が、これでもかという具合に、個人別に展示されているのだ。ハングルの展示説明通りに日本語訳すると、「全身に24個の弾片を浴びて死亡した白川(義則)大将」(写真)。「片目を失明した野村(吉三郎)中将」「片方の脚を切断した植田(謙吉)中将」「重傷を負って、病院に運ばれる村井(倉松)総領事」「片足を切断した重光(葵)公使」といったありさまだ。

 この「上海天長節爆弾事件」では、日本人民間人の死傷者も出た。上海日本人居留民団会長の河端貞次氏(医師)が死亡し、同書記長の友野盛氏が重傷を負った。ところが彼らの写真は展示されていない。

 80年以上も昔の「テロの戦果」をいちいち写真で誇示する一方、民間人の死傷は巧妙に隠蔽されているのである。まったく無神経で、国際感覚に欠ける展示だ。これを見せられて愛国教育を受ける韓国の中学生たちは、どういう人間に育つのか。独立国家のアイデンティティを確立することと、隣国への敵愾心と復讐心を植え付けることとは、雲泥の差がある。月とスッポンだ。これでは「夜郎自大の自滅の道」を歩むしかない。元ソウル特派員の僕はそう思った。

 翌日、僕は知人の韓国人歴史学者に会った。彼にiPhoneで撮影した尹奉吉記念館の展示写真を示した。「これ見てよ。どう思いますか」。僕の質問に彼は「こんな展示をしてるんですか」と驚いたように言った。数年前まで国策歴史機関のトップにいた人物だ。彼の現役時代の行動に僕はかなり批判的だが、その彼ですら知らない所で「田舎民族主義の愛国教育」が行なわれている実態がある。

 爆弾事件が起きた上海.虹口公園(現在の魯迅公園)には、中韓国交樹立後、石碑と資料館「梅軒」が建てられたことも付記しておきたい。梅軒とは、尹奉吉の号である。