戦後日本の政治は、1955年に結党した自民党政治そのものだったといっても過言ではない。終戦直後、吉田茂と岸信介、2人の総理大臣がそれぞれ目指す路線は違いながら、お互いにせめぎ合いを繰り返して戦後政治を形作っていったわけだけど、吉田は自分が首相になってからできた日本国憲法をむしろ利用しようとするんだよね。
(瀧誠四郎撮影)
 もっと言えば、日本国憲法というのは日本を弱体化するための憲法なんです。憲法には2つの目標があって、一つは日本の弱体化、だから日本を非武装にするわけだね。そしてもう一つは、日本を理想的な民主主義の国にしようという目標。だから主権在民、要するに国民が主権を持つという、アレです。それと基本的人権や、言論・表現の自由、宗教・結社の自由、男女平等とかね。そういう理想的な民主主義国家に日本を変えようとした。

 だけど、吉田はこれをむしろ利用しようとした。だから、ゼロから出発という日本人のエネルギーをほとんど経済、経済復興に集中させた。でも、安全保障についてはアメリカに任せると。なるべくアメリカに任せて安上がりにすると。安全保障、それとエネルギーには金をかけない。これが吉田の政治ですね。

 それに対して岸はやっぱり戦前の政治家ですから、というか太平洋戦争が始まってからの大臣ですからね。安全保障をきちんとするためには、日本国憲法はアメリカが押し付けた憲法だと思っていた。だから、日本人の手で憲法を作り、独立国としての安全保障を維持するために、当然ながら非武装でない軍隊をちゃんとつくる、という信念があった。言い換えれば、安全保障重視の岸信介と、経済重視の吉田茂。2人の存在はその後の日本の流れになる。もっと踏み込んで言うと、護憲派の吉田、改憲派の岸と、こうなるわけだね。

 けれども、岸は自らの政治生命を賭けて60年安保を改定し、その後すぐに退陣した。彼は安保改定とともに心中したわけだね。当時を振り返ってみると、60年安保に反対した共産党や社会党、労働組合や学生たち、あのときは僕も毎日のように安保運動に参加しましたけど、やっぱり岸の安保改定は、日本が、いや日本国民が戦争に巻き込まれる、戦争に巻き込むための改定なんだと思っていた。

 最近になって、また学生たちがデモを始めたけど、女性の参加が多いのは、また安倍さんの集団的自衛権を柱にしたこの安全保障関連法案、これによって日本が戦争に巻き込まれるんではないかという不安というか、政府への批判というのは当時ともよく似てますね。

議場内で挨拶を受ける吉田茂元首相(中央)、その右は岸信介元首相
 60年安保というのは、つまり「安保改善」だったんですよ。吉田安保から岸安保への。ところが、運動をやっているほとんどの連中が安保改善だとは思ってない。みんな改悪だと思っていた。これはとんでもない誤解ですね。

 そして、こういう誤解を生んだ直接のきっかけは、安保改定の2年前に岸が警職法の改正をやろうとしたことが背景にある。簡単に言えば、戦後の日本の警察は弱体化しすぎたから、彼らの職務権限を強化しようとした。それに対して、反対運動が盛り上がり、これは廃案に追い込まれた。この警職法改正の断念をきっかけに、岸は国民のための政治ではなくて、国家のための政治をやろうと考えが変わってしまった。

 ここから、いわば反岸内閣のような運動が一気に高まる。かつて、岸はA級戦犯として占領軍に逮捕され、東京・巣鴨の拘置所に収監された過去もありましたしね。それに、当時はまだ戦争が終わっていくらも経っていない時期ですよ。安保が改定されたのは、1960年ですからね。

 だから、国民の間に反戦という機運は今よりもずっと強かった。戦争は何が何でも嫌だと。で、どうも岸の安保は戦争に巻き込まれるのではないかという思いがどんどん広がった。実は、岸の安保は国民を戦争に巻き込むのではなくて、岸は吉田安保を文字通り改善させたんです。それも三つの点で良くなった。

 一つは、吉田安保というのは占領軍、つまりアメリカが思うがままにどんな場所であっても、いくらでも日本国内に基地をつくれる。もちろん、日本に事前の相談をする必要すらない。どこにでも基地をつくれるのに、それでいて日本を守る義務はない。しかも期限すらない。というのが吉田の安保だったんです。これに対し、岸は基地をつくる場合には日本と事前に相談しなければならないと主張した。

 しかも、極東の安全を維持するために、日本を守る義務もあるとした。ただし、期限は10年であると。だから吉田安保と比べてみると、岸が目指した安保というのは、そういう意味でも改善だったと思う。当時は僕も含めて、ほとんどの人間が吉田安保と岸安保の違いを読んでもいなかったし、理解していなかった。