Wedge編集部


 アベノミクス解散はいかなる条件を整えていたのか。自民党歴代首相の「解散史」から読み解く。

 「大義がない」─メディアに散々そう書きたてられながら、なぜ安倍晋三首相は鮮やかに「伝家の宝刀」を抜くことができたのか。野田佳彦、麻生太郎と歴代首相の結末を思い出していくと、「首相の大権」であるはずの解散権を使いこなせた首相のほうが少ないことに気づく。
議長が解散詔書を読み上げると、失職した議員たちが万歳を三唱する(AP/AFLO)
議長が解散詔書を読み上げると、失職した議員たちが万歳を三唱する(AP/AFLO)

 典型は1976年の「三木降ろし」である。自民党内の長老たちを中心とする大派閥連合が三木武夫首相を引きずり降ろそうとした。「挙党体制確立協議会(挙党協)」なる組織まで結成され、与党の7割に背を向けられた三木の政権運営はことごとくつまずいていく。背景には、その年の2月に発覚したロッキード疑惑を「徹底解明する」と言った三木の約束があった。田中角栄の金権体質に対する世間の批判をかわすために、クリーンなイメージのある三木が担ぎ出されたのだが、文字通りの「徹底解明」は許されなかった。

 結果、三木は内閣改造も解散もできず、戦後初、かつ、現在に至るまで唯一の任期満了選挙に追い込まれていく。三木は解散のための閣議を招集しようとしたが、派閥領袖の意向を受けた閣僚たちにボイコットされてしまった。総選挙で自民党は過半数の議席を取ることができず、三木は退陣した。

 何の因果か。その15年後の91年、三木を敬愛する海部俊樹首相が「海部降ろし」に遭うこととなる。三木同様、小派閥から担がれた首相だったが、政治不信が高まるなか、その清新なイメージで90年の総選挙を大勝に導いていた。しかしその後、目玉の政治改革関連法案が審議未了廃案となり、海部は「重大な決意で臨む」と発言。解散と受け取った各派閥が「海部降ろし」を始めた。支えてきた竹下派が主導して、海部は内閣総辞職に追い込まれる。

 これら「解散できなかった首相たち」からわかるのは、解散権を実行するためには、「選挙に勝つ」見込みだけでなく、「首班指名される」見込みがなければならないということだ。「野党に勝つ」に加えて「党内で勝つ」自信があることが、解散の必要条件なのである。

 海部に限らず、総辞職に追い込まれた福田赳夫・康夫父子、あるいは、勝算なきまま不本意な解散に追い込まれていった宮澤喜一(内閣不信任案の可決)や麻生太郎(任期切れ間近)など、多くの首相の末期は党内で勝つ見込みが立たないために、今回のような解散が打てない。

弱体化した派閥 カネとポストは総裁に


 55年体制における自民党の主戦場は、社会党との戦いではなく派閥争いだった。しかし今、自民党総裁の立ち位置は大きく変容している。

 さまざまな制度改正と環境変化が、派閥の弱体化と総裁と党本部の権力強化をもたらした。参議院の恨みを衆議院で晴らすという曲芸をやってのけた小泉純一郎首相の「郵政解散」(05年)がその真骨頂だが、かつての総裁に比べ圧倒的に党内を掌握しやすくなっているために、解散が打ちやすくなっている。

 「自民党をぶっ壊す」

 そう叫んだ小泉純一郎がぶっ壊したのは、党ではなく派閥だった。森派(現・町村派)に属しながら「周辺居住者」と呼ばれ、派閥の領袖ですらなかった小泉が、改革者のイメージを掲げて総裁選に勝利したのは2001年。小泉は党役員人事でも組閣でも派閥推薦を徹底的に排除し、「一本釣り」の多用で総裁に権力を集中させていく。

 竹下政権以降、4大派閥のうち総裁を出さない3派閥が党三役を分け合う慣行が続いていたが小泉は無視した。なかでも、小泉が狙いを定めていたのは、当時最強の橋本派(竹下派の流れを汲む。現・額賀派)だ。なぜ小泉が郵政改革と道路公団改革にこだわったのか。それは、自民党の保守本流が既得権益を積み上げてきた分野だったからと見れば理解しやすい。

 かつて派閥には、「資金援助」「選挙応援」「公認獲得」「閣僚推薦」の4つの大きな機能があった。

 94年の政治資金法改正で議員や派閥への企業献金は厳しくなり、政党助成法で国庫から交付金が注入される党本部の財政は格段に良くなった。各議員の政治資金は、派閥の依存度が下がり、党本部への依存度を強めていく。

 小選挙区導入も大きな影響を与えた。同じ選挙区に同じ党に所属するライバルはいなくなり、派閥領袖の応援はさして意味をもたなくなり、党本部からの公認さえ得られれば自民党の地方組織と支援団体のサポートを独占することができるようになった。首相の人気だけで当選する○○チルドレンも大量に生まれる時代となった。

 カネもポストも総裁が握ったとなれば、派閥が弱体化するのは当たり前だ。いまでは、国会の進捗を確認する情報収集の場としてのランチが、派閥の最大の効用なのだという。

 「実は派閥弱体化の端緒を開いたのは、90年代の政治制度改革ではなく、89年の小沢一郎幹事長です」

 毎日新聞で長く政治記者を務めた中村啓三氏の解説は目から鱗だ。89年8月に発足した海部俊樹内閣の下で、47歳という若さで幹事長に就いた小沢は、政治資金集めのフローを大きく変えることに専心する。

 「リクルート事件や消費税導入で人気が凋落していた自民党が翌年に迫った総選挙に勝つには、カネに頼る以外にないと考えた小沢は、経団連に献金のとりまとめを要請するというそれまでの慣行を破りました。

 財閥など企業グループごとに直接、献金額の交渉を行っていったのです。企業側は資本金で献金額の上限が定められていることを理由に大幅な増額に難色を示しましたが、子会社ごとに献金すれば全体でこの程度積みあがるはずだと譲りません。結果、300億円の目標に対し、260億円程度の献金を党本部に集めたと言われています。

 あおりを食ったのは派閥です。もう企業に派閥に回す金はありません。盆暮れに配るモチ代にも事欠いた派閥には、党本部から頭数に応じて資金援助がなされました」(中村氏)

 それから四半世紀。いまでは国庫からの政党助成金が最大の収入源だと聞くと隔世の感がある。

 「自民党総裁は1人で党全体の6~7割の力を握っている」

 中村氏によれば、幹事長時代の大平正芳はしばしばこう口にしたと言う。派閥全盛の時代に6~7割なら、いまの首相はいったい何割だろうか。

自民党「解散史」にしっかり学んだ安倍晋三


 これだけ集中された力を、解散権という大権の実行時に投下させることができるかどうかが分かれ道だ。肝心なのはタイミングである。

 今回の解散は野党の選挙準備が整っていない時期を狙ったと言われているが、このモデルになったのは、中曽根康弘首相の「死んだふり解散」(86年)だろう。ちょうど公選法改正が行われている最中で、法施行日までに解散はないと考えられていた時、中曽根は衆参同日選挙に打って出た。自民党は300の大台に乗る大勝を収めた。

 解散で大勝に至った中曽根「死んだふり解散」と小泉「郵政解散」に共通しているのは、足下の経済の良さである。本誌1月号の「経済の常識・政策の非常識 拡大版」で原田泰氏が述べているが、この2人の時代しか、財政再建は進んでいない。

 このことはある仮説を呼び起こす。派閥も資金集めも気にする必要がなくなった首相がその座を維持するために必要なのは、世論の支持だけだ。それはひとえに経済運営にかかっているのではないか。人々の嗜好が多様化し分断が進む現代において、世論をまとめるには経済が良くなければいけない。逆に言えば、経済さえ良ければ、あとはタイミングを見て解散を打てばよい。経済に陰りが見え始めた時に間を置かず、しかも経済運営そのものを争点化した安倍の戦術は示唆に富む。

 小沢が手をつけ、小泉が仕上げた派閥解体と党本部強化。小選挙区制、政党助成金制度、政治資金規正法改正がもたらした総裁への権限集中と、省庁再編による官邸強化。野党の油断を突くのは中曽根「死んだふり解散」に、アベノミクスが是か非かという争点の単純化はもちろん小泉の「郵政解散」に範を取っている。自民党の歴史に埋め込まれた先人たちの教訓と数々の智恵をすべて活かしたのがアベノミクス解散だったと言うのは、後講釈過ぎるだろうか。(文中敬称略)