柳澤協二(元防衛省幹部、国際地政学研究所理事長)



 安保法制は戦争法案か平和法案か、という確執があった。安保法制は、重要影響事態や国際平和共同対処事態といった認定を前提として、米軍の軍事行動への後方支援(重要影響事態法)、多国籍軍の軍事行動への後方支援(国際平和支援法)ができるようにする一面を持っている。こうした軍事行動を戦争と呼ぶなら、後方支援という形であっても、それに「参戦」することを可能にする法律は、戦争法案と言って差し支えなかろう。

 一方、政府の言い分は、そうすることによって結果としてより大きな平和が達成されるという意味で、平和法案だ、というものだ。

 そもそも戦争とは何か?戦争とは、国家の組織的暴力による他国に対する強制である。それを防ぐための「抑止力」とは、より強力な暴力を顕示することによって、暴力の使用を思いとどまらせる試みである。その意味で、戦争と平和は、力の優劣という同じコインの表裏にすぎない。絶対的平和は存在しない。それゆえ、平和を継続したければ戦争に備えなければならない。それが、リアリストの見る世界である。抑止力を強調するのであれば、「我が国は戦争を決意している。ゆえに手出しをすれば手痛い目に遭うぞ」ということを、胸を張って言うべきなのだ。

 我が国は、戦後70年間、米国という人類史上最強の覇権国の庇護に頼る一方、激烈な勢力争いの世界の中で、戦争とは一線を画した「平和」を享受してきた。戦争は、日本の戦争ではないと認識されていた。それは、戦争を否定する憲法と、それ以上に「戦争だけはやってはならない」という時代精神のもとで、現実に存在する戦争から自らを疎外した結果であり、対米従属という代償を気にしなければ、すべての国民にとって居心地の良い平和であった。

 例えばベトナム戦争において我が国は、米軍の出撃拠点であったが、米軍の行動に関与しない姿勢を貫くことによって、自らが戦争に関わっているという居心地の悪さを感じないように努めてきた。

陸上自衛隊相浦駐屯地の西部方面普通科連隊が本拠地での訓練を公開。注目度は高く、多くの報道陣が取材に訪れた=7月16日、長崎県佐世保市(鈴木健児撮影)
 今日、米国の力に陰りが見える中で問われているのは、平和をどう守るかということと同時に、日本が戦争に手を汚さないという居心地の良さを享受し続けることができるかどうか、あるいは、戦争からの疎外を克服し、自ら戦争に関わることをもって居心地がよいと感じるようになるべきなのかどうか、ということだ。

 安保法制を巡る議論の中で、居心地の悪さを象徴するのは、自衛隊員の戦死のリスクである。政府の答弁は、リスクが増加することを否定する趣旨のものだった。それは、戦死が、今日の日本社会にとって不都合な、居心地の悪いものであることを認識しているということだ。

 自衛隊員が一人も戦死してはいけない、という命題は正しい。だが、国土防衛戦を考えれば、それはあり得ないことでもある。自国防衛に関する国民と自衛隊の覚悟は、一応できていると信じたい。問題は、外国で、日本の防衛と何らかの意味でつながりはあっても、日本の防衛そのものではない任務のために隊員が犠牲になることをどう認識するか、ということだ。それは、名誉なものとして伝えられるだろう。だが、その名誉は、どこから生まれて、どの程度共有されるのだろうか。