園田寿(甲南大学法科大学院教授、弁護士)

暴力団の歴史


 「暴力団」という言葉は、法律上は、「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む。)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」(暴力団対策法第2条第3号)と定義されていますが、一般には、いわゆるヤクザ(博徒・ばくと)集団と同様の意味で使われてきました。

 ヤクザ組織自体は歴史的には古く、江戸時代後期にまで遡ることができます。現代でも、構成員相互で親分・子分・兄弟分の縁(擬制血縁関係)を結び、江戸時代の任侠道やヤクザ道などを標榜している団体も多く、断指や入れ墨、仁義など裏社会にのみ通用する独特の副次文化が残っており、しかもそれらの一部がいわば表の文化の一部をなしている場合もあります(日常生活で普通に「親分・子分」や「仁義」といった言葉が使用されることがあります)。暴力団のこのような特殊な精神構造からも、その問題の根はかなり深いといえます。

 暴力団は、社会経済情勢の変化に伴って、その組織や活動形態を変化させてきました。

 昭和20年代は、終戦直後の社会的混乱から、それまでに存在していた博徒・的屋(てきや)といった集団にさらに愚連隊と呼ばれる青少年不良集団が加わり、闇市等の利権を巡って対立抗争がくりかえされました。
山口組総本部に入る車両。大勢の報道陣が集まった=9月1日、神戸市灘区
山口組総本部に入る車両。大勢の報道陣が集まった=9月1日、神戸市灘区
 昭和20年代後半になり、社会的経済的秩序が回復するとともに、弱小の団体が淘汰され、暴力集団の再編が始まります。それまでは活動形態や収入源によって区別されていた暴力集団が、覚せい剤や芸能興行など、大きな利益を生む新たな利権に群がるようになり、各種の暴力集団の境界があいまいになっていきました。「暴力団」という呼称が社会に定着したのもこの頃でした。

 昭和30年代後半になると、さらに暴力団の淘汰が進み、他団体との抗争において優位に立った一部の暴力団が、その組織力と安定した資金源を背景に地方に進出するようになり、その過程において大規模な抗争を繰り返し、弱小の団体をさらに吸収してその勢力を一層拡大していきます。

 昭和40年代になると、暴力団に対する社会的関心も強くなり、警察の集中取締まり(頂上作戦)が展開され、首領・幹部を含む構成員が大量に検挙されましたが、昭和40年代後半には、服役していた彼らが相次いで出所し、組織の復活・再編が図られました。しかし、警察の取締まりが強化された結果、非合法的資金源にのみ依存していた中小の暴力団は壊滅的打撃を受けたものの、傘下団体からの上納金制度を確立した大規模な暴力団は、中小暴力団を吸収し、さらに大規模な広域暴力団へと組織化・系列化が進みました。

 昭和50年代、暴力団の寡占化傾向が一層進み、一部暴力団は海外にその活動の場を求めていきました。また、「企業舎弟」や「経済ヤクザ」といった新しい言葉も生まれています。企業舎弟とは、「暴力団の影響下にあって企業の形をとって活動するメンバー又は組織」のことであり、表面的には合法的企業活動を行いながら、裏で暴力団幹部と結びつき、暴力団を資金面で支える存在となっています。また、経済ヤクザとは、非合法活動で巨額の利益を得た暴力団が、合法的企業を装い組織化された経済犯罪を行う集団のことです。これらは従来の「暴力団」という言葉ではとらえきれない面をもっており、暴力団の変貌した姿が新たな問題となっています。暴力団の推定年間収入は1兆数千億円、その大半は非合法手段によるものだと言われています。

 平成以降、暴力団対策法(暴対法)(後述)が平成4年に施行され、暴力団対策は新たな時代を迎えます。暴対法とは、各都道府県の公安委員会が指定した暴力団(指定暴力団)を対象とし、その構成員による金銭や業務発注など不当要求を禁止する法律です。これにより、指定暴力団員がその所属する指定暴力団等の威力を示して行う不当な行為(27類型)が禁止され、それまで対処が困難であった民事介入暴力の取締りが効果的に行えるようになりました。公安委員会は、暴力団対策法に違反した指定暴力団等に対して、中止命令や再発防止命令を出し、その行為を中止させています。 この命令は行政命令ですが、命令に違反すると刑罰の対象となります。