「戦前の樺太は活気にあふれててね。自然も豊かで人情もあって。本当にいいところだった…」

 南樺太で生まれ育った近藤孝子(84)=東京都三鷹市在住=はこう言って目を細めた。

 明治38年、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太は日本領となった。多数の日本人が入植し、林業や漁業、製紙業などで栄え、昭和16年12月の国勢調査では40万6557人が暮らしていた。

 米国と戦争が始まっても平穏だった。学校では日本人、ロシア人、朝鮮人が一緒に学んだ。近藤は南樺太でずっと幸せに暮らしていけると信じて疑わなかった。

 ところが、昭和20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に一斉侵攻したことで近藤らの人生は大きく変わった。

 樺太への侵攻は11日に始まり、ソ連国境近くの古屯(ことん)付近で日本軍と戦闘になった。北部の住民が南部に避難してきたが、近藤らが暮らす落合町など南部は空襲もなく、今ひとつ戦争の実感はなかった。

 8月15日正午。近藤は女学校の同級生とともに勤労動員先の陸軍大谷飛行場近くの寄宿舎で、玉音放送を聞き、終戦を知った。

 ところが、終戦後もソ連軍の攻撃は続いた。20日には、樺太西海岸の拠点だった真岡町にソ連軍が上陸した。内地への引き揚げ命令が出た22日、ソ連軍は樺太庁のある豊原市(現ユジノサハリンスク)を爆撃、100人以上が死亡した。

 同日、引き揚げ者を乗せ、北海道・小樽に向かっていた小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3隻が国籍不明の潜水艦の攻撃を受け、第二新興丸を除く2隻が沈没、1700人以上が死亡した。犠牲者の大半は女性や子供、老人だった。

 ソ連はこの事件に関して沈黙を守ったが、ソ連崩壊後、海軍記録などからソ連太平洋艦隊の潜水艦L-12、19が付近海域で船舶3隻を攻撃したことが判明している。この事件を受け、引き揚げ事業は中断され、近藤ら大勢の日本人が南樺太に留め置かれた。

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 サハリンに名を変えた南樺太は無法地帯となった。

 ソ連兵は傍若無人だった。短機関銃を構えて民家に押し入っては時計や万年筆、鏡など貴重品を手当たり次第に略奪したが、黙って見ているしかなかった。

 強姦(ごうかん)も日常茶飯事だった。近藤ら若い女性は髪を短く切り、作業服姿で男のふりをして日中を過ごし、押し入れか屋根裏で就寝した。ソ連兵が家に押し入ると押し入れで息を潜めた。
占領した南樺太(南サハリン)の真岡市(ホルムスク)を行進するソ連軍兵士(ロシア軍中央博物館)
占領した南樺太(南サハリン)の真岡市(ホルムスク)を行進するソ連軍兵士(ロシア軍中央博物館)
 そこで若い女性が選んだのは、朝鮮人との結婚だった。少なくない女性が「強姦されるよりも嫁に行った方がいい」と思っていたからだ。近藤も23年5月に朝鮮人と結婚した。

 同年10月、親代わりだった叔父夫婦や弟の帰国が決まった。叔父らは「一緒に帰ろう」と勧めてくれたが、夫が帰国対象にならないことから南樺太にとどまった。同じような境遇の日本人妻は数多くいた。

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 サハリンは日本人妻にとってますます住みづらくなった。朝鮮人は男女問わず「日本のせいで故郷に帰れなくなった」と日本人妻をなじった。ソ連当局の監視も厳しかった。

 耐えられず朝鮮名に改名する日本人妻も多かったが、近藤は本名を通した。「いつか日本に帰る」と心に決めていたからだ。

 唯一の慰めが、ラジオから流れる日本の歌謡曲だった。美空ひばり、三橋美智也-。樺太で生まれ育った近藤は歌詞の日本の地名にはピンとこなかったが、歌を聞く度に「私は日本人なんだ」と勇気づけられた。

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 日本に一時帰国できたのは平成2年5月。新千歳空港に降り立つと弟が出迎えてくれた。42年ぶりの再会だった。

 近藤が末娘一家とともに日本に永住帰国したのは平成12年10月、終戦から55年がたっていた。今も幸せを感じているが、ふとこう思うこともある。

 「私が知っている樺太での日本とはどこか違う。日本は戦後、大切なものをなくしてしまったんじゃないか。樺太のことも忘れられていくのかな…」