【日本史の中の危機管理 濱口和久】

スターリンの野望

 69回目の終戦の日が過ぎた。終戦直後である69年前のちょうどこの時期、千島列島の北端で、日本軍とソ連軍との間で戦闘が繰り広げられていたことをご存じだろうか。

 先の大戦末期の1945(昭和20)年2月4日から11日まで、クリミヤ半島のヤルタで米国大統領のルーズベルト、英国首相のチャーチル、ソ連首相のスターリンによる3カ国首脳会談が開かれた。会談でルーズベルトは、ソ連による千島列島と南樺太の領有を認めることを条件として、スターリンに日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。これが「ヤルタ密約」といわれるものだ。
ヤルタ会談に臨む英国首相のチャーチルと米国大統領のルーズベルト、ソ連首相のスターリン(前列左から、米国立公文書館)
ヤルタ会談に臨む英国首相のチャーチルと米国大統領のルーズベルト、ソ連首相のスターリン(前列左から、米国立公文書館)
 ヤルタ会談の2カ月後、ルーズベルトは急死。副大統領から昇格したトルーマンは終戦工作を進め、日本はソ連参戦と広島、長崎への原爆投下を経てポツダム宣言を受諾する。そのトルーマンは8月15日、スターリンに対し、ソ連が日本軍の降伏を受理する地域を規定した「一般命令第一号」を送付した。そこではソ連軍の占領地域は満州と北緯度以北の朝鮮となっており、ヤルタ密約とは違って千島列島は含まれていなかった。この内容を不満としたスターリンは翌16日、直ちにトルーマンに次のような要求をする。

 (1)日本軍がソ連軍に明け渡す区域に千島列島全土を含めること。これはヤルタ会談における3カ国の決定により、ソ連の所有に移管されるべきものである。

 (2)日本軍がソ連軍に明け渡す地域には北海道の北半分を含むこと。北海道の南北を2分する境界線は、東岸の釧路から西岸の留萌までを通る線とする。なおこの両市は北半分に入るものとする。

 あろうことかスターリンは、北方4島を含む千島列島全島の領有を挙げたのみならず、北海道の半分を要求してきたのである。北海道の占領は、日本のシベリア出兵に対する代償であると主張した。

 トルーマンからは北海道北部のソ連占領を認めないという返事が18日には届いたが、スターリンはそれを無視する。ソ連の戦史研究所所長、ボルゴドノフ大将は、スターリンは終戦直前、極東軍最高司令官、ワシレフスキー元帥に「サハリン南部から北海道に3個師団の上陸部隊を出せるように準備指令を出した」と語っている。

 近現代史研究家の水間政憲氏はボルゴドノフ大将の発言を裏付ける証拠として、ソ連の「北海道・北方領土占領計画書」を山形県鶴岡市のシベリア資料館で発見し、『正論』平成18年11月号にその内容を発表している。これを読むと、ソ連は北海道の半分どころか、あわよくば全島の占領をもくろんでいたことが分かる。