小堀桂一郎(明星大教授)


昭和20年の概念に疑問

 平成七年は戦後五十年の節目の年に当たるということで、各種の記念的企画や行事が早くから取り沙汰されているようである。そこでその「戦後五十年」とは元来如何なる概念なのか、この際少々基本的なところから考え直してみる試みもあってよいだろう。

 先づ昭和二十年八月十五日を以て大東亜戦争が「終わった」と見られているが、この把握は正しいだろうか。確かに、いわゆる「終戦の詔書」は昭和二十年八月十四日付で渙発(かんぱつ)され、それは翌十五日にラジオ放送を通じて日本国の全軍隊と全ての一般市民に布告せられた。その詔書の主旨は、昭和天皇が〈非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲〉せられ、その措置の具体的内容は〈米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメ〉るというものだった。

 それでは天皇が政府をしてその受諾提案に〈応セシムル〉ことを決断されたポツダム共同宣言とは如何なる趣旨のものだったか。これが日本に向けて発せられたのは七月二十六日のことで、この時ソ連は未だ対日戦に参加していなかったから、共同宣言は米(大統領)、中(政府主席)、英(内閣総理)の三国の政府責任者の名に於いて出されており、その主文はこの三国の代表が〈協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ〉というものだった。そしてこの主文に附して〈日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄〉は三国の巨大な軍事力を以て最後的打撃を加へ続けるであろうことを宣し、その〈巨大ナル軍事力〉には原子爆弾攻撃が含まれるであろうことを言外に、しかしかなり露骨に示唆していた。

 日本政府はこの宣言を受けて、相手の言う〈戦争ヲ終結スルノ機会〉を掴んだ。その実現の第一段階として全軍隊に〈抵抗ヲ終止スル〉ことを命じた。政治的措置としての詔書が果たした役割はここ迄であり、それ以上のものではない。
サハリン西岸のホルムスク、旧真岡に残る廃虚となった旧王子製紙の工場(共同)
サハリン西岸のホルムスク、旧真岡に残る廃虚となった旧王子製紙の工場(共同)
 世上往々にして、八月十五日は性格には敗戦の記念日であるのに、それを「終戦の日」と呼ぶことによって国民は敗北の現実から眼を背けようとした、という非難的論議が行われているが、それは当たっていない。「終戦」という概念はポツダム宣言とその受諾という外交的過程から自然に論理的に導きだされてきたことであって、「敗戦」の言い換えであったという様な意味は事実上有していない。

 問題は、昭和二十年八月十五日に生じたことは、「終戦」という労多き大事業の第一歩を踏み出したまでのことであって、この大事業は一篇の詔書を以て一挙に完結できるような生易しいものではなかった、この事実についての認識が一般に欠けていることである。