【紙上追体験 あの戦争】 


 北から阿頼度島の千島最高峰アライト山(二、三三九メートル)、中千島は松輪島の芙蓉山(一、四八五メートル)、そして国後(くなしり)島の爺々岳(一、八二二メートル)など、いずれも富士山そっくりのコニーデ型火山が連なる千島列島。夏に山々は濃い緑におおわれる。この美しい島々が、明治の初めから敗戦までの七十年の間、日本領土だったことを思うと感無量なものがある。それがどうして、日本のものでなくなったのか。

 ここで、時計の針を終戦直後まで戻してみる。

 ソ連軍が千島列島北端の占守島に大挙上陸してきたのは、昭和二十年(一九四五年)八月十八日。終戦の三日後だった。進駐というよりは、対岸のカムチャツカから長距離砲の射撃を加えながらの強行上陸だった。対抗上、日本軍も応戦せざるを得ない。

 この小さな島に、日本軍は大小八〇門以上の火砲と戦車八五両を持っていた。米軍に大打撃を与えた硫黄島やペリリュー島以上の備えといえたろう。本来これらの重火器は本土決戦に備え内地に還送されるはずが、もう運ぶ手段がなくそのまま残っていたのだ。砲火は波打ち際に集中し、ソ連軍は午後四時の停戦成立までに戦死傷者三千以上といわれる大損害を受けた。満州、樺太を含めた対ソ戦で、日本軍最大の勝利だった。

日本統治時代に形作られたユジノサハリンスク、旧豊原の碁盤の目のような町並み(共同)
日本統治時代に形作られたユジノサハリンスク、旧豊原の碁盤の目のような町並み(共同)
 ソ連軍は終戦後になって、なぜこのように無謀な戦闘を仕掛けたのか。ソ連国防省編の戦史の記述は、すでに米ソ冷戦の始まりが背景にあるかのように、「航空基地および海軍基地を千島列島内に設定しようとする米軍の要求を阻止するにあった」としているが、それだけとも思えない。ソ連軍を迎え撃った第九十一師団長(旭川)の堤不夾貴中将は、戦後の手記で次のように回想している。

 「ヤルタにおけるルーズベルトのスターリンに対する言質だけの不安に対し、血の裏付け、肉の保持として必要なのか…」

 無血占領が約束された地に、あえて出血覚悟で攻め込んだのは、わずか数日の参戦で暴利を得ることへの後ろめたさを消し去る意味があったと、堤師団長は指摘したかったのだと思う。