下川正晴(元毎日新聞論説委員)

 95歳で亡くなった「伝説の女優」原節子さんの珍しいプライベート写真を公開したい。

 22歳の彼女が今井正監督「望楼の決死隊」(1943)撮影のため、満州・朝鮮国境の満浦鎮(現在の北朝鮮慈江道満浦市)で、1943年の正月を迎えた時の記念写真である。この映画は、国境警備隊長の妻を演じた原節子が、村を襲撃した匪賊ゲリラ撃退のため騎兵銃をぶっ放す、という破天荒なシーンがあることで知られている。写真は、撮影当時の国境警察署長の官舎で撮影された。

 この貴重な写真を紹介しながら、日本映画史に埋もれた日朝合作の傑作「望楼の決死隊」を考察したい。「日本一の女優」(「キネ旬」アンケート)と評された原節子さんの死去は、日本現代史がひとつの帰結を迎えた2015年の象徴的な出来事であり、日本人がバランスのとれた認識を持つための優れた教材であると思うからだ。(以下、敬称略)

写真に潜む悲惨な終戦史

 
 写真は、私が大分県立芸術文化短大教授として在任していた2010年、「望楼の決死隊」を上映した際に、国境警察署員だった亡父の遺品として、遺族がご持参いただいた。写真の中段右から5番目(チマ・チョゴリの女性の左隣)が、原節子である。写真の裏には、「昭和18年1月5日、東宝『望楼の決死隊』ロケーション記念撮影(朝鮮平安北道江界郡満浦邑文興洞警察署長官舎)」との記載があった。

中段の右から5番目が原節子さん (C)下川正晴
原節子さん(中段の右から5番目)と地元民ら (C)下川正晴
 映画関係者のうち男性陣は警察署で、女性陣は署長官舎で新年の祝宴を開いたという。記念写真を見ると、何人かの日本、朝鮮の女優らしき姿が見える。チマ・チョゴリ姿の女性は、明らかに当時の朝鮮トップ女優である金信哉だ。その他の人物は特定できていない。

 写真を所持していたのは大分市の無職、宮明健児(75)である。右端の女性は健児の母親(9年前に90歳で死去)。彼女に抱かれている子供が健児だ。彼は「この写真は父親が大分にいる妹に送っていたために、我が家に残っていたのではないか」と言う。

 父親の松夫(明治45年生まれ)は、普通文官(準キャリア)試験に合格した警察官であり、当時は満浦警察署に勤めていた。7年前に96歳で死去した。松夫は戦後、故郷の大分県に帰ったが「朝鮮戦争が起きると、公安調査庁からたびたび復職するように勧められたが、断っていた」(健児の話)という。

 松夫は終戦時、新義州にあった平安北道警察高等教育課の幹部(警部補)だった。その際、上司のN課長が一家心中する悲劇に遭遇した。坪井幸生「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」(草思社)の「あとがき」にも短く記述されている事実だ。健児によると、真相はソ連に抑留される直前に、課長は短銃自殺、妻と子供たちは服毒自殺したという悲惨な事件だったという。Nは故郷が福岡県椎田町であり、父親の松夫はたびたび墓参に出かけていた。 

銀幕引退から52年  

 原節子は東京五輪が開かれる前年の1963年に銀幕を引退した。この年が戦後史の画期点であることは、再論する余地がないほどに明確である。そして、彼女が亡くなった戦後70年目にして、日本現代史は新たなステージに入った。安保法制、TPPという安全保障、国際経済の重要事項とともに、「原節子の死去」を時代が変わったメルクマールとして、後世は記録するだろう。

 しかし、彼女の「不在」がきわめて長期にわたったため、その存在は「伝説の女優」として神秘化された。世界映画史上の「名女優」として、現代の日本人が明瞭に記憶しているか疑わしい。

 もうひとつの問題は、名画座やテレビで上映される彼女の映画は、黒澤明監督「わが青春に悔いなし」(1946)小津安二郎監督「東京物語」(1953)など戦後制作の作品が多いことだ。原節子の映画人としてのキャリアは、1935年4月15日、14歳で日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画「ためらふ勿れ若人よ」(田口哲監督)でデビューしたことから始まる。

 彼女の戦前期の映画は、計51本もある。しかし、いま上映される戦前の映画は決して多くない。戦後映画に偏重しているのだ。本稿で取り上げる「望楼の決死隊」にしても、ようやく今年の夏にDVDが出るなど、これまで看過されてきた作品なのである。

 この映画の主な特徴を列記すると、以下の通りだ。

 (1)戦争のさなかに、朝鮮国境で撮影された希有な作品である(2)「内鮮一体」を基調とする日朝合作の国策映画である(3)米国映画「ボー・ジェスト」を下敷きにした活劇映画である(4)巨匠・今井正監督(戦後は共産党員)が演出した国威発揚作品である(5)朝鮮映画界の巨匠になる崔寅奎(チェインギュ)が演出補佐として参加した―などが挙げられる。日本から「永遠の処女」原節子が出演する一方、朝鮮からは「永遠の少女」と称された金信哉(キム・シンジェ)が出演(巡査の妹役)していることも、もちろん特筆大書すべきである。