若者を中心に多くのファンを魅了し、時代を彩ってきたアイドル。日本でその呼称が定着したのは昭和40年代の「新三人娘」ブーム以降だが、アイドルの萌芽(ほうが)は30年代から活躍した双子デュオ、ザ・ピーナッツにも認められる。偶像が生まれた背景には、テレビ文化の発展と、新しい音楽文化を希求する情熱があった。

双子デュオ、ザ・ピーナッツ


和製ポップスを確立させたザ・ピーナッツ
和製ポップスを確立させたザ・ピーナッツ
 皇太子殿下と美智子さまのご成婚パレードが放送され、テレビが急速に普及した34年、フジテレビ系「ザ・ヒットパレード」は始まった。デビュー間もないザ・ピーナッツがレギュラー出演し、絶妙なハーモニーによる和製ポップスを浸透させた音楽番組だ。

 仕掛け人は、フジのディレクターだった作曲家のすぎやまこういちと、渡辺プロダクション創業者の渡辺晋(しん)。渡辺プロが多額の番組制作費を肩代わりする形で始まったが、晋と妻の美佐(現渡辺プロダクショングループ代表)は「絶対にお茶の間に受け入れられる」と確信していた。

 渡辺夫妻は、名古屋から上京してきたザ・ピーナッツを自宅に住まわせ、レッスンを積ませてきた。注力したのは歌だけでなく、振り付けや衣装など「いかに楽しく見えるか」という人々の「目」を意識した娯楽性。音楽と映像を同時に楽しめるテレビ時代を見据えた訓練は功を奏し、番組は大ヒットした。

 ザ・ピーナッツは日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」などの番組にも出演し、一躍人気者に。司会やコントもこなす一方、映画などにも出演するマルチタレントぶりで新時代のエンターテイナーとしての地位を築いていく。

 美佐は語る。

 「ザ・ピーナッツはテレビを通じてたくさんの人に愛された。2人が新しいエンターテインメントの形を見せたことで、後のアイドルが生まれる環境が整っていったのかもしれません」

 「ザ・ヒットパレード」を手がけたすぎやまはその後、作曲家として渡辺プロ所属「ザ・タイガース」の楽曲などを手がけ、グループ・サウンズブームをもり立てる。映画会社やレコード会社が大きな力を持っていた当時、テレビ局と芸能プロという“新勢力”同士の結びつきが、芸能界に新風を吹き込んでいった。

「白雪姫」天地真理



 アイドルの語源は「偶像」を意味するラテン語「イドラ」で、1940年代に米国の歌手、フランク・シナトラを指して使われ始めたとされている。日本ではフランスの歌手、シルヴィ・ヴァルタンの曲と映画の邦題「アイドルを探せ」(昭和39年)などで言葉が“輸入”された形跡を確認できる。

 ただ、若手人気歌手や俳優は「青春スター」などと呼ばれることが多く、「アイドル」が本格的に定着したのは40年代後半。特に46年、小柳ルミ子、南沙織、天地真理がそれぞれデビューし、「三人娘」(新三人娘)と呼ばれるようになった頃が一つの転換期だ。

 天地はTBS系ドラマ「時間ですよ」で「隣のマリちゃん」として登場し、注目を集めた。「白雪姫」のキャッチフレーズで歌手デビューし、「真理ちゃんとデイト」などの冠番組がシリーズ化されるなどテレビを通じて人気が過熱。人形や自転車などアイドルグッズのはしりも発売され、国民的な支持を得る。

 天地の楽曲制作ディレクターの一人だった中島二千六(にちろく)(現渡辺音楽出版社長)は、7作目「恋する夏の日」の企画を所属していた渡辺プロ社長の渡辺晋に説明したときのことを鮮烈に覚えている。「天地が高原のテニスコートで白いテニスウエアを着てたたずんでいる」という楽曲のイメージを告げると、晋から厳しく追及された。

 「テニスコートの場所は軽井沢か? 山中湖か?」

 「…軽井沢です」

 中島は、やり取りの意図をこう説明する。

 「それだけ背景を想像できる歌詞にこだわっていたということ。イメージを作りあげ、演じさせる。晋社長は『女性シンガーはファンが恋人』と言い、具体的な恋人が登場するような歌詞は避けていた」

 本人のチャームポイントを誇張し、疑似恋愛を誘うよう、一種の「演出」を加えて売り出していく-。現在につながるアイドルプロデュースの原型が形作られていった。

 40年代後半、10~20代のアイドルの楽曲は徐々にレコード売り上げランキングをにぎわしていく。だが、そうした変化は必ずしも肯定的に受け止められていたわけではなかった。

 CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)の音楽プロデューサーとして、南沙織や郷ひろみの楽曲を手がけた酒井政利はその頃、あるテレビ局員からこんなことを言われた。

 「酒井さんは、アイスキャンディーを売っている」

 アイスがすぐ溶けてしまうように、アイドルの旬は短く、たくさん売らないといけない-。そんな含意を感じ取った酒井は「言い得ている」と思うと同時に、別の思いも強くした。

 「従来の歌謡曲に飽き足らない、時代や若者が欲している新しい音楽はある。時代をとらえた言葉や音楽は、いい意味で心に痕跡を残せるはずだ」

 46年春、16歳だった南と初めて会った酒井は「しっかりした『自己』を持っている」と直感したという。南のデビュー曲「17歳」で重視したのは、私小説的なメッセージ性だった。

 軽快なメロディーに乗り、「私は今 生きている」(有馬三恵子作詞)と伸びやかな声で宣言するこの曲は、大ヒットを記録。沖縄返還を翌年に控え、沖縄出身の南への注目は集まり、取材やテレビ出演も相次いだ。酒井は「アイドルとファンの距離はありすぎてもだめなのだと思う。彼女が話しかけ、訴えてくるような近さを、ファンはきっと感じ取ったのではないか」と振り返る。

 「17歳」は後のアイドルやアーティストによって何度もカバーされ、CMソングにも採用されるなど、今ではアイドル・ポップスの記念碑的楽曲と見なされている。溶けない「アイスキャンディー」もあることを、月日が証明したのだった。

昭和40年代後半から50年代前半にかけて、アイドルは隆盛期を迎える。46年に日本テレビ系の公開オーディション番組「スター誕生!」が始まったことで、「普通」の少年少女にとって、デビューは夢から“手が届く憧れ”に変わる。そして人気絶頂のアイドルが自ら宣言した幕引きは、社会に大きな衝撃を与えた。