新井克弥(関東学院大学文学部教授)

 参政権が拡大され有権者年齢が20歳から18歳に引き下げられる。必然的に投票権を保持する人口は増えるが、これが若者の政治関心と直結するかどうかは不明だ。

 これに従って飲酒、喫煙、ギャンブル、さらには少年法年齢も同じように引き下げるべきとの議論が持ち上がっている。ただし、これには反対も多い。日本禁煙学会などは禁煙、飲酒が「依存症や生活習慣病などの健康リスクや、事故、暴力などの社会問題リスクを高め、学校現場に混乱をもたらす」として引き下げをしないよう求める要望書を政府に提出。またNPOアルコール薬物問題全国市民協会の今成知美氏は「18歳、高校3年という進路に向け真剣にがんばっている時期に、道を外す若者が出て来てしまう」と批判している。

 これら危惧の声、個別に見ればもっともな感じがしないでもない。しかし、青少年の育成を大枠で考えた場合、根本的に欠落している部分がある。成人の「通過儀礼」としての機能を顧みていないのだ。

通過儀礼の消滅


 成人式そして成人資格・責任の付与は人生のけじめを設定する重要な機能を担っている。

 かつて若者は地域共同体に暮らし、また終身雇用制が盤石な環境の中におかれていた。また社会全体が大人になることの意味を共有していた。それゆえ、若者が「今日から自分は社会的責任を担った大人」と自らに位置づけることは比較的容易だった。

 だが、この機能が弱体化した現代では大人になることは容易ではない。

 70年代、これらの社会的インフラが消滅、価値観も多様化したため、大人になる、社会人になる指標が消滅してしまった。当時、こういった状況にある若者を精神分析家の小此木啓吾がモラトリアム人間、つまり「いつまでも大人になろうとしない人間」と呼んだのは象徴的だ。

 そこで、若者たちはセルフメイドで大人になる通過儀礼を設けた。大学よりも専門学校をめざしたり、一人旅やワーキングホリデー、ボランティア参加などを通じて、私さがしをするようになったのだ。

 それからすでに40年あまりが経過し、モラトリアム人間的な心性は50代にまで達している。前述したような私的な通過儀礼ができれば、それはそれでよいのだが、多くの若者たちが通過儀礼不在のまま、いわば生殺し的に大人でもなく子どもでもない傾向を持ち続けるようになったのだ。その典型的な人格がオタクであることはいうまでもない。

 それでもなお成人、つまり「二十歳から大人になること」は、残存する最大の通過儀礼だ。20歳になる時点で一斉に社会的資格と責任が与えられるからだ。

 だが、もし今回参政権だけを18歳に引き下げて、他については20歳のままとしたら、「二十歳成人」という一括で大人と認定する通過儀礼の機能はこれまで以上に曖昧になってしまうだろう。場合によっては参政権の意味も曖昧になり、ますます投票所離れが進む可能性もある。