放射線管理区域のトリック


 しかし、国道6号清掃活動をとりあげた週刊誌の記事タイトルはこうなっていた。

「子どもがセシウムを吸い込む“被ばくイベント”が福島で決行された」(光文社「女性自身」10月27日発売号)

「放射能に汚された福島“6国”清掃活動は美談でいいのか」(集英社のウェブサイト「週プレNEWS」)

 こんな記事を見た地元の人々のショックの大きさを、外部被ばくと内部被ばくの実態を知った賢明な読者の皆さんなら、理解することができるだろう。

 タイトルに問題はないのだろうか。弁護士に聞いてみるとこんな解説が返ってきた。「どんなに小さな量でも、このイベントでちょっとは追加的にセシウムを吸い込んだり、被ばくしたりしたでしょうからねえ……、被ばくイベントという表現は間違いとはいえないですよね……。原発事故によって、放射能に汚されたというのも事実ですし……」。

 裁判とはそんなものと言うべきか、編集部もそこは弁えていると言うべきか。事は裁判に勝てるかどうかという詮ない話ではなく、「integrity(品格)の問題である」(澤昭裕・国際環境経済研究所所長)。

 両記事が依拠する理屈は、原発事故で売れっ子になった元・京大原子炉実験所助教の小出裕章氏らがいつも持ち出す「放射線管理区域」のロジックだ。

 週プレ流に言うと「放射線管理区域の基準は1平方メートルあたり4万ベクレルだから、それ以上の汚染土壌がある場所には、放射線管理区域と同じように一般人が立ち入ってはいけない」となる。

 法令では、原発作業員や放射線技師など、仕事で追加的に受ける放射線量を「5年で100ミリシーベルト」という線量制限に収めるために、放射性物質を扱う人と場所と扱い方に制限がかけられている。放射性物質等を扱う場所を限定するために定められた区域を放射線管理区域という。

 「1平方メートルあたり4万ベクレルというのは管理区域を設定する際の基準であって、極めて安全サイドのシナリオに基づいて定められたもの。その数字を安全と危険の境目のごとく言うのは誤りで、誤解を引き起こすトリックだ」(放射線安全の専門家、多田順一郎・NPO法人放射線安全フォーラム理事)。

 女性自身と週プレの記事には、東京から駆けつけた「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」なる団体のメンバーが登場する。

 お揃いの蛍光色チョッキを身に付けた彼らは、線量計が先についた長い棒を金属探知機のように扱いながら、ボランティアの脇を歩いていた。その線量計が指し示した最高値は毎時1.3マイクロシーベルト。最高値といっても、ゴミ広いだからずっとその場所で暮らすわけではない。仮に10秒そこにいるとすれば、1.3÷3600×10で、たった0.004マイクロシーベルト追加的に被ばくすることになる。これがどの程度の値かはもう説明する必要はないだろう。
福島・浜通り地区で開催された国道6号の清掃ボランティア活動に対し、「高線量で危険」と東京から駆けつけた活動家たち(Wedge)
福島・浜通り地区で開催された国道6号の清掃ボランティア活動に対し、「高線量で危険」と東京から駆けつけた活動家たち(Wedge)
「毎時1マイクロシーベルトを超えた! 離れて!!」わざわざ東京から駆けつけて、そう中高生に声かけする「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」のメンバーの様子は熱心にも映る。

 しかし、記者は、空き時間にタバコを吸い、N95マスクと口元の間がきちんと塞がっていない彼らの姿を目撃してしまった。これは、発がんリスクを真面目に考えている人たちの行動とはとても言えないだろう。

 低線量被ばく問題は難しい。福島の被ばく量が先述の通り小さかったとしても、数十年後の晩発性障害を現時点で完全に言い切ることはできない。科学者たちは誠実であればある程、確たること以外は語りたがらず、「言い切ることはできない」「今のところはわからない」という言いぶりになる。

 そして、その不確実性を悪用して、自らの反原発イデオロギーを補強する専門家も存在する。専門家であれば、親・原発だろうが反・原発だろうが、原発へのスタンスとは切り分けて、福島の被ばくの現実に向き合った発言をしてほしいものだが、世にいろいろな人がいるのと同じで、専門家にもいろいろな人がいる。彼らの言葉をうまくつなぎ合わせれば、いわゆる「エセ科学記事」はいくらでも作れてしまう。

 これが「エセ科学記事」がはびこる温床なのだが、まともな科学者の間で一定の相場観は共有されている。記者は科学者ではないからその相場観を書いておきたい。

――福島の被ばくはチェルノブイリに比べケタ違いに小さい。とくに内部被ばくはあったとしてもごくわずかでゼロに近い。将来、事故由来の晩発性障害が起きる可能性はかなり低い。放射線を気にするなら交通事故から生活習慣病まで、もっと気をつけるべきリスクが山ほどある。福島は「避難が足りない」のではなく「避難させすぎた」。だから、老人ホームなどで1000人を超す関連死を出してしまった――

 本来、いまの福島について語らなければいけないことは放射能ではない。避難による故郷の喪失や賠償金の多寡による軋轢。分断されたコミュニティの再生という問題である。

 国道6号の脇によく落ちているゴミで目立つのは、尿が入ったペットボトルや、便入りのビニール袋だという。国道6号は住民たちが行き交うかつての姿はなく、原発廃炉や除染の作業に従事するダンプカーだらけになっている。トイレで下りるのが面倒な運転手たちがそういったゴミを捨てていくのだろうか。住民の多くが避難したまま帰還せず、廃炉や除染の作業員ばかりが目立つ故郷の姿に、どれだけ地元の人々が悩んでいることか。そして、そんな浜通り地区に、外野からありもしない放射能問題をぶつける活動家たちは本当にズレている。

 デマは排除できないが、偏見をもたらし、人々を傷つける。迂遠な取り組みかもしれないが、デマに騙されないリテラシーを多くの人が身につけるしか悪意ある活動家に対抗する術はない。