木宮正史(東京大学大学院総合文化研究科教授)

 2015年11月19日、朴裕河氏(世宗大教授)が自著『帝国の慰安婦』(日本語版は朝日新聞社から2014年出版)によって名誉棄損罪で在宅起訴されるという情報に接し驚愕した。民事訴訟が係争中であるのは知っていたが、「売春婦」「(日本軍と)同志的な関係」という「字句」が著書で使用されていることに対する名誉毀損の告訴を検察が受け入れたわけである。これに対して即刻、日本の知識人を中心とした抗議声明が発表され、私も賛同者の一人となった。

 この著書が慰安婦問題に関わるだけに、この問題はどうしても慰安婦問題それ自体として混同されがちである。しかし、この問題と慰安婦問題とは切り離すべきだと私は考える。たとえ1965年の日韓請求権協定における「完全かつ最終的な解決」という合意があるとしても、2005年慰安婦問題は「未解決」という立場を韓国政府は明確にし、さらにアジア女性基金も韓国の政府、社会では満足すべき解決として受け止められなかったことを勘案すると、この問題に関して日韓両政府が交渉によって何らかの前向きな対応をさらに模索するべきだと私は考える。そうすることが、慰安婦としての過去に起因して非常に困難な人生を歩まざるを得なかった「ハルモニ」たちへの「慰謝」の意思を示すとともに、過去の「加害」の歴史を反省し人権問題に積極的に取り組むという日本の姿勢を国際社会に向けてより一層明確にすることで、日本の威信を高め国益にも資すると考えるからである。幸い安倍政権もこの問題を「戦時下女性の人権侵害」として位置づけ、前向きに取り組もうとしている。

 朴裕河氏をめぐる今度の問題に関して私が憂慮するのは、慰安婦問題に関して韓国の主流とは異なる見方を採る朴裕河氏を、日本社会、しかも従来慰安婦問題などに関しても前向きな姿勢を示してきたリベラルな勢力が支援することにより、慰安婦問題をめぐる日韓の亀裂をさらに深める危険性を内包することである。「慰安婦問題に関して日本側の肩を持つ朴教授を韓国政府は弾圧している」というような「誤解」を与えないようにすることが必要である。そうした構図を作り出すことは、朴裕河氏の意図と全く反することになるだろうし、慰安婦問題の解決にも寄与しない。

韓国の国会前で国定教科書導入に賛成する保守団体のメンバーら=2015年10月12日、ソウル(聯合=共同)
韓国の国会前で国定教科書導入に賛成する保守団体のメンバーら=2015年10月12日、ソウル(聯合=共同)
 したがって、この問題を韓国社会、さらには日韓を横断する人権、民主主義の問題として考えるのが合理的で妥当だと考える。最近の韓国では、韓国の最左派政党である統合進歩党の解散、産経新聞前ソウル支局長の在宅起訴とそれに伴う出国禁止措置(現在は解除され帰国)、歴史教科書の「国定」化、そして朴裕河氏に対する刑事告訴という4つの問題に象徴されるように、少なくとも外から見ると韓国の人権や民主主義にとって憂慮すべき一連の事件が起こっている。この4つの問題は韓国国内では別々の問題であるとして連携して取りあげられていないように思うが、社会における価値観の対立を「市民社会の熟議」や「市場の淘汰」という自律的メカニズムに任せて解決することを放棄し、政府が介入して国家としての「正しい価値」を植え付けるという共通点を持っている。

 そうした現状に対して、日本では、韓国は「言論や学問の自由を弾圧し、民主主義とは言い難い」という極端な批判も提起される。そして、そうした批判の背景には「自国の人権さえ尊重しない韓国が、慰安婦問題などで日本を批判する資格があるのか」という含意がある。また、1970年代80年代、韓国の政治体制に対して、日本が「上から目線」で韓国の非民主性を批判したという「苦い過去」を想起する人がいるかもしれない。