新国立競技場の新しい案がふたつ発表されたのが14日。その後3日間にわたって競技関係者からヒヤリングを行った上で、19日には両案の採点評価を終えた。
新国立競技場の設計・施工業者の選定に向けた
審査委員会に臨む委員ら=12月19日午前、東京都港区
新国立競技場の設計・施工業者の選定に向けた 審査委員会に臨む委員ら=12月19日午前、東京都港区

 報道に接するかぎり、最終的な判断基準は「外観デザイン」。内部の構造や詳しいコンセプトはあまり公表されていないから、まずは「箱の形」を決めるプロセスなのだろう。こうした大規模建築コンペの慣例を知らない素人からすると、中身より外見だけでいいの? と戸惑いを覚える。しかも、残り時間が少ないとはいえ、2案からひとつに絞る期間も慌ただしく、拙速の感が拭えない。

 テレビや新聞、ネットなどのメディアではしきりに「どちらが良いか?」、国民の意見を求める報道が行われた。情報を公開し、広く民意を募っている印象を与えているが、主に報じられるのは上辺の限られた情報。それで民意そして競技関係者の要望が反映されたのか疑問だ。

 競技場の良し悪しは、箱のデザインだけで判断できるものではない。これだけ国民的な関心事となった新国立競技場建設問題が相変わらず核心抜きの議論になっている「日本の現状」に首を傾げてしまう。大事なことは巧みに隠され、国民の多くもそこに突っ込まない。メディアが誘導するままに、提示された話題に食い付いてそれ以外の論点には目を向けない風潮を感じる。

 私は、招致運動が盛り上がっているころから一貫して東京五輪招致に異議を唱えていた立場から改めて提言したい。

 2020年東京五輪に疑問を投げかけていたのは、「オリンピックは感動的だ」「スポーツは素晴らしい」といった、もはや幻想ともいえるイメージを共通理解の根底に置いていたからだ。スポーツ界で不祥事が頻発し、スポーツがイジメや体罰の温床になっている現状を直視すれば、そしてスポーツがもはや無償の行為でなく商業的な報酬と利益を前提としたビッグ・ビジネスとなったいま、1964年の東京五輪で国じゅうが感動に打たれたあの時代とは違うことをきちんと国民に説明する責任が本来はある。

 ところが、東京五輪音頭の推進者たちはむしろあの幻想を持ち出して国民の同意を得るプロモーションを展開した。2020年東京五輪を歓迎する政府や自治体、企業の思惑はまさにスポーツ以外のインフラ整備や経済効果などにある。だから本質的な問題から国民の関心を遠ざけ、真意を隠す意図が施されたのかもしれない。日本はいま、東日本大震災からの復興という最重要課題を抱えている。それがまだ根本的に解決されず、展望も見えていないのに、復興支援を二の次にして東京五輪を推進する姿勢に私は申し訳なさを感じる。

 2020年に東京五輪を迎えることになったいま、私たち日本人がまずしなければならないのは、なぜ東京五輪を開催するのか? 復興支援に影響を及ぼしてまで開催する意義、将来にわたってスポーツが社会に果たす役割や必然性といった将来展望を共有することだ。スポーツっていいよね、ではなく、スポーツには弊害もある、現状厳しい課題にも直面している。これらをオリンピック開催という大事業を通じて共有し、新しい道筋を見いだし、醸成していく姿勢が大前提だ。

 そうした根本理念、東京五輪開催の明確なビジョンがないから、東京五輪の象徴ともいえる新国立競技場のコンセプトが明確に浮かび上がって来ない。

 デザインで選ぶにしても、なぜ石ではなく、木なのか。ただ「和のイメージ」でなく、ヨーロッパ的な『石の文明』と日本古来の『木の文化』の違い。歴史的事実や背景を伝えることで改めて日本文化に自信を持つ絶好の機会にもなるはずなのに、そうした核心的なメッセージは伝えられない。