紀藤正樹(弁護士)

 東京都庁郵便小包爆発事件で、殺人未遂幇助の罪に問われた菊地直子被告の裁判で、平成27年11月27日、東京高裁は、懲役5年とした東京地裁の裁判員裁判による判決を破棄し、無罪判決を下した。地下鉄サリン事件から今年20年、一報を聞いた時はまずは驚くとともに、無罪判決は、弁護人の努力のなせる結果だと感じた。

 職業裁判官に無罪判決を書いてもらうのは極めて難しい。刑事事件の実情を知る弁護士として、そして事件当時のオウム真理教の実態を知る者としては、犯行を計画遂行する幹部信者と犯行に利用された末端信者の状況を丹念に立証された結果の無罪判決ではないかと想像されたからだ。

 もっとも判決を読んでみると「疑わしきは被告人の利益に」といった無罪推定の原則に一言も触れず、「経験則、論理則に照らせば、殺人未遂幇助の意思を認めるには合理的な疑いが残る」「テロ行偽を実行するという本件殺人未遂を幇助する意思はなかったとする被告人の供述を排斥することはできない」と言う消極的な理由に終始し、1審の裁判員裁判の判断を批判しているだけのように感じられた。
オウム真理教・東京都庁郵便物爆発事件 
裁判員裁判の判決公判 裁判長が読み上
げる判決に身じろぎせずに聞き入る菊地直
子被告(右)=6月30日、東京地裁
(イラスト・井田智康)
オウム真理教・東京都庁郵便物爆発事件  裁判員裁判の判決公判 裁判長が読み上 げる判決に身じろぎせずに聞き入る菊地直 子被告(右)=6月30日、東京地裁 (イラスト・井田智康)
 裁判に国民が期待するのは「真実」だろう。真実の実態を前提に、国民は今後の対策を立てることができるし教訓にもなる。しかし消極的な理由では、オウム真理教の起こした事件の実態に迫ることができず、裁判を税金で運営する国民の側は非常に不幸だ。被告人にとっても「証拠がないから無罪」と言われているようで、社会復帰の足かせにもつながりかねない。つまり今回の無罪判決はより良い未来につながらず、それが後味の悪さを感ずる原因となっている。

 実際、今回の判決は、いくつか議論を巻き起こしている。その一つが、裁判員による判決を高裁の職業裁判官が真っ向から否定した点だ。高裁判決は、裁判員裁判でなされた認定を「原判決の判断は、その説示自体に経験則、論理則に反する不合理な点が少なからず見受けられる」「被告人に殺人未幇助の意思を認める根拠となる被告人の言動に関する井上証言の信用性を認めた理由も肯認できない」として批判した。

 裁判員判決が有罪認定の根拠とした井上嘉浩死刑囚の証言に至っては、「不自然に詳細かつ具体的」「被告人が逮捕されて井上が被告人の関与について事情聴取を受けた時点でも事件から約17年を超えている」「むしろ記憶に残っていることは不自然であるとすらいえる」とまで述べている。

 しかし1審の裁判員は、証人尋問をし、その表情や話しぶりを直接に見聞きしている。その裁判員の判断を簡単に覆してよいのだろうか。特に井上証言について、「約17年」の年月から見て「詳細かつ具体的」という理由でその信用性を否定したことは大きな議論を呼んでいる。最高裁は、平成24年2月13日の判決で「刑訴法は控訴審の性格を原則として事後審としており、控訴審は、1審と同じ立場で事件そのものを審理するのではなく、当事者の訴訟活動を基礎として形成された1審判決を対象とし、これに事後的な審査を加えるべきものである。

 1審において、直接主義・口頭主義の原則が採られ、争点に関する証人を直接調べ、その際の証言態度等も踏まえて供述の信用性が判断され、それらを総合して事実認定が行われることが予定されていることに鑑みると、控訴審における事実誤認の審査は、1審判決が行った証拠の信用性評価や証拠の総合判断が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかという観点から行うべき」「控訴審が1審判決に事実誤認があるというためには、1審判決の事実認定が論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要である」「このことは、裁判員制度の導入を契機として、1審において直接主義・口頭主義が徹底された状況においては、より強く妥当する」と判示している。

 この事件は、1審無罪→高裁有罪→最高裁で逆転無罪としたケースである。対し今回は、1審有罪→高裁無罪→最高裁へという事件である。逆パターンだが、最高裁の基準は、今回の菊地高裁判決でもそのまま判断枠組みとして踏襲されている。問題は「1審判決の事実認定が論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要である」とする基準に照らし、今回の高裁判決の理由付けが「具体的」であったか否かという点だろう。

 今回の高裁判決と同様の経過をたどったケースとしては、最高裁が、平成25年9月3日、1審の裁判員裁判の有罪判決を破棄し無罪とした高裁判決を維持して上告を棄却したというケースがあるが、この時、最高裁は、特に理由を付さなかった。

 東京高検は、12月9日、判決を不服として最高裁に上告した。根拠としたのは、平成24年2月13日の最高裁判例違反だ。最高裁は、上記基準を維持しつつ判断をするのか、無罪推定との関係で上記基準に一部変更を加えるのかなど、有罪か無罪かの結論はともかく、説得力を持つ理由付けを付した未来につながる判決が出されるのが望ましい。注目に値する。