阿羅健一(近現代史研究家)



 とうとう南京事件がユネスコの世界記憶遺産に登録された。ユネスコにはよく知られている世界遺産のほかに世界記憶遺産がある。世界記憶遺産にはイギリスのマグナカルタ(大憲章)、フランスの人権宣言、日本の御堂関白記などが登録されている。今回の登録で南京事件はそれらと同じように歴史的事実となり、事件に関する文書は保存すべき貴重なもの、と認められてしまったのである。

 南京事件とはなにか。戦時宣伝であり、架空の出来事である。記憶遺産に登録されたことで日本人は数十万の南京市民を殺した残虐民族、という烙印が押されたことになる。次の世代に日本が残虐民族だと負い目を背負わせてしまったのだ。

阻止への動きが鈍かった日本政府

 何故こんなことになったのか。まず中国の国際政治力だ。しかし申請以降の日本政府の態度にも問題があった。

 中国がユネスコに申請したと判明した昨年六月、菅義偉官房長官は抗議する一方、「日中間の過去の一時期における負の遺産をいたずらに強調することは極めて遺憾だ」と事件を認めている。外務省の動きも皆目わからない。彼らは「旧日本軍が南京に入った際に、非戦闘員の殺害や掠奪などがあったことは否定できない事実」とたびたび述べてきた。外務省が所管した5年前の日中共同歴史研究でも「日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている」と認めていた。書店に並ぶ南京事件に関する著作は半分以上が事件を架空なものと見なしているのに、こうした研究は全く無視された。中国が30万以上の虐殺を主張し、日本も規模はともかく事件そのものを認めているのだから、申請が認められるのは自然の流れだった。

中国の資料は反論が可能なシロモノ

 しかし、そうだとしても阻止できなくはなかった。というのは、事件は架空なので登録すべき史料がないのだ。申請するに当たって当初中国が提出した資料は、マギーフィルム、程瑞芳日記、谷寿夫中将の裁判記録というようなものであった。史料という点からいえば、マギーフィルムと程瑞芳日記が当たるかもしれない。

 マギーフィルムは、当時南京にいたマギー牧師が撮影したもので、病室の負傷者や民家が写っている。昭和十三年五月のアメリカの写真週刊誌「ライフ」にも紹介されたが、写っているのは数人の負傷者で、それらもほかの写真も戦場の写真としてはありふれ、大虐殺を写したものでもなければ、髣髴させるものでもない。政治ショーのような東京裁判でも証拠として提出されなかった。
南京大虐殺記念館で行われた追悼式典で演説する中国の習近平国家主席=13日、中国江蘇省南京市(代表撮影・共同)
南京大虐殺記念館で行われた追悼式典で演説する中国の習近平国家主席=2015年12月13日、中国江蘇省南京市(代表撮影・共同)
 程瑞芳日記は、金陵女子文理学院の舎監であった程瑞芳の十二月の日記を指し、難民収容所になった金陵女子文理学院の様子が記録されている。それによると殺戮を暗示するような噂話が記載されているものの、程自身の見た殺人は一件もない。強姦と掠奪が九件起きたと記述されているだけである。二十万の虐殺があったとしたなら、収容人数の比率からいって金陵女子文理学院では一万人ほどの殺害があってよいはずである。強姦にしても二万件の強姦があったとの判決であるから、若い女性を中心に収容した金陵女子文理学院では数千件の強姦があって当然である。翌年一月四日の「ニューヨーク・タイムズ」は、金陵女子文理学院で中国軍大佐をトップとした中国人の一団が日本軍の仕業に見せかけて強姦をしていたと報道しており、程が挙げた強姦にしても日本軍によるものかどうか。強姦と同数起きたとされた掠奪は食料の鶏やお金といったものである。

 このように、ふたつは事件の史料とはなっていない。むしろ南京が通常の戦場であることの証拠である。

 また、谷寿夫中将は戦後南京に連行され、昭和二十二年に銃殺刑に処せられているが、谷中将率いる第六師団が城内に入ったのは数百メートルまでで、数日すると主力は蕪湖方面に転進していった。谷中将も入城式に参加するため一週間ほど南京にとどまっただけである。南京事件は翌年まで続いていたと判決はいっているが、その責任を谷中将に問い、裁判で日本の弁護士がついたのでもなかった。谷中将の反駁書によれば、南京事件というものを知ったのは戦後にアメリカ軍が発表した「太平洋戦争史」によってである。そういう戦争裁判の記録にすぎない。

 今回の世界記憶遺産への申請は九十六件あったという。今年初夏、審査小委員会で事前審査がなされ、そのうちの五から七件に問題があると判断され、追加資料の提出が求められた。南京事件もその一つであった。

 こういったことを踏まえればいくらでも反論できたはずである。