佐野眞一(ノンフィクション作家)

壮絶なひめゆり部隊の証言


 戦後七十年の日本人というと思い出す女性が二人いる。

 いずれもウチナーンチュ(沖縄人)で、一人は沖縄戦の孤児で現在七十五歳を超えている。

 もう一人は津波古ヒサさんといい、沖縄戦の最後を戦った“ひめゆり部隊”の生き残りである。昭和二年生まれだから今年九十歳近い。

 二人の今日までの来歴は、戦後七十年の日本人そのものである。

 二人の出会いについては後回しにして、元“ひめゆり部隊”の津波古ヒサさんが、学徒動員されるまでの歴史を簡単におさらいしておこう。

 彼女は那覇市の松山小学校から昭和十九年に女子師範学校に進んだ。そして翌二十年三月、学徒動員された。

“ひめゆり部隊”は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒二百二十二名、教師十八名で構成された学徒隊の別名である。

 だが、彼女の“沖縄戦”は、“ひめゆり部隊”入りする前からすでに始まっていた。

 昭和十九年八月二十二日、九州などに学童疎開する対馬丸に引率者として乗った兄夫婦と子どもが、米海軍潜水艦に撃沈されて落命した。対馬丸事件の犠牲者は、学童を中心に一千三百七十三名。

 対馬丸に乗っていた肉親は、それだけではなかった。

 別の兄夫婦と五人の子ども、それに子どもの面倒を見るためにお姑さんも乗り込んでいたから、犠牲者は全部で十一人にも及んだ。

 彼女はそういう辛い歴史を背負って“ひめゆり部隊”に入隊した。津波古さんは米軍の南下作戦に従い、激増する日本兵負傷者の手当てや、死者の遺体埋葬に追われた。

「ひめゆりの塔」には修学旅行生の訪問が絶えない=沖縄県糸満市
 沖縄本島南部の糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」が出版した記念誌には、その後の米軍の動向と“ひめゆり部隊”の最期がこう記されている。

 〈5月下旬米軍が迫るなか、学徒たちは日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南端部に向かいました。移動先の安静もつかの間、激しい迫撃砲の続く中で6月18日を迎えます。学徒たちは突然の「解散命令」に絶望し、米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、そしてある者は自らの手榴弾で命を失いました。陸軍病院に動員された教師・学徒240名中136人、在地部隊その他で90人が亡くなりました〉

 ひめゆり平和祈念資料館の展示室には、生き残った“ひめゆり部隊”女学生たちが語った生々しい証言がパネルで展示されている。とても全部を紹介することはできないが、主だった証言の見出しだけでも挙げておこう。

 痩せこけた兵隊ところころ太った蛆/麻酔なしの手術を申し出る患者/おしっこをゴックンゴックン/鋸で切り落とした足/青酸カリを混ぜたミルク/おしっこしたいよ……学生さん/泥んこを這いずり回る両足切断患者/ドラム缶のように腫れた死体/当美ちゃん……足がない/ミイラになった兵隊たち/姉さん……死にたくない/一ちゃんは目を大きく開いて/フミさんの顔がなくなった/顔がシャモジになった/ジャクジャク ジャクジャク蛆が湧く音が……。