椎野礼仁(編集者)

 「よど号事件について執筆を」という編集部の依頼文の中に、いくつかの執筆希望項目があった。その最初が「過激なテロリストを生みだした社会背景」であった。うーん、ここで私は考え込んでしまう。“テロリスト”と言う言葉に、違和感を覚えるのだ。

 実は、この違和感は、“よど号”だけについて感じるわけではない。政治的な事件で暴力性が伴うものをすべてテロという言葉で一括りする昨今の風潮に、「違うんじゃないかなぁ」というかすかな苛立ちを覚えるのだ。

 本筋から離れるので、詳しくは書かないが、日本で言えば、1960年の、山口二矢という17歳の右翼少年による、日比谷公会堂壇上での社会党委員長・浅沼稲次郎への刺殺のように、ほかに手段を持たない(と思い詰めた)個人、ないし少数者が、暴力(多くは暗殺など)で政治目的を達しようとする行動がテロだ。圧倒的な専制政治を敷いたロシアの皇帝に対して、若き過激派グループが、その馬車に爆弾の投擲を企図する……そのような営為が典型で、今日の使われ方より、うんと意味が狭い。いや、意味が狭いというより、全く別の概念と思ったほうがいいだろう。

 話しは戻る。日本で初のハイジャックをやり、北朝鮮に渡った彼ら・共産主義者同盟赤軍派の9人は、革命家たらんと志していたのであり、テロリストになろうとは、微塵も思っていなかったはずだ。

 1970年の3月31日から4月3日にかけて起きた、日航機よど号を乗っ取ってピョンヤンに向かわせた事件が「よど号ハイジャック事件」だ。もっともこの頃は、ハイジャックという単語は誰もが知っている言葉ではなかった。現に、この半月ほど前に、赤軍派のリーダー塩見孝也を逮捕した警察は、彼の手帳の日付に書いてあったHJという文字の意味に気がつかず(?)、まんまと事件(赤軍派の側から言わせれば闘争だが)を成功させてしまう。

 成功と簡単に書いたが、富士山上空で日本刀やピストル(オモチャだったが)などで武装した赤軍派9人が立ち上がってから、福岡板付空港にいったん着陸し、その後ピョンヤンと偽って着陸したソウル金浦空港での4日間の攻防については、まるで映画のような紆余曲折・攻防がたくさんあった。それらについては本がたくさん出ているので、興味のある方は当たっていただきたい。
1970(昭和45)年3月31日、赤軍派の9人が羽田発福岡行きの日航機「よど号」を富士山上空でハイジャック、日本刀などで機長を脅し北朝鮮行きを強要した。福岡や韓国・金浦空港で乗客を解放した後、北朝鮮に亡命した。写真は福岡空港での女性や子ども、病人の解放。
 とにもかくにも、ピョンヤンに渡った彼らの、その後である。

 編集部の注文項目にも「われわれは明日のジョーである! という言葉を残し、出発した彼らの目的、彼らが味わった理想と現実」という一文がある。

 彼らの目的は、説明しやすい。1970年3月という時期は、70安保闘争の最大の山場と言われた69年秋の佐藤(首相)訪米阻止闘争が、圧倒的な機動隊の力の前に敗北した後、取るべき次の戦略を巡って、ブント(共産主義者同盟のこと)の分裂が公然化した時期である。

 図式的に言うと、この敗北状況を、再度大衆運動の立ち上げから作り直そうという「右派」叛旗派、さらなる暴力の先鋭化で突破しようとした「左派」赤軍派、その中間の主流派(?)という系統である。

 赤軍派は、「大阪戦争」「東京戦争」を呼号した、火炎瓶を使って警察などを襲撃する69年秋の闘争で大量の逮捕者を出した。11月には大菩薩峠の「福ちゃん荘」では軍事訓練と称して集まった部隊が一網打尽になり、53人の起訴者を出した。

 そんな中で、70年3月に起こしたのが「よど号ハイジャック」である。これは、リーダー塩見が唱えた「世界同時革命-国際根拠地論」に則った計画で、まず北朝鮮に渡り、自派の理論でキム・イルソンをオルグする。そして自分たちは、軍事訓練を受けて、秋には日本に戻り、日本革命運動に再参加する……。

 若い読者にとっては、悪い冗談か誇大妄想としか思えないだろう。だが、私も含めて、当時新左翼運動に参加した人々にとっては、それなりにリアリティはないわけではなかった。それはベトナム戦争に反対する世界的な運動のうねりなどとの関連もあるのだが、これもまた、ここで詳しく触れる紙幅はない。

 遠大な、ずさんな戦略であり、それに基づいた戦術ではあったが、そもそも当時の新左翼各派の戦術は、敗北が前提だった。「機動隊殲滅!」「佐藤訪米阻止」と叫んだところで、それが実現するなんて、誰ひとり思ってはいなかった。