二十五年前、新左翼集団の中から「革命戦争に向けた武装蜂起」を掲げる「赤軍派」が登場した。あまりにも過激なその行動は、「よど号事件」を経て「連合赤軍」を派生、十二人の仲間を殺した「山岳アジト事件」や「浅間山荘銃撃戦」を引き起こした。やがて赤軍派は四散してしまうが、「昭和元禄」といわれた高度成長社会に与えた衝撃は小さくなかった。


共産同の分裂から誕生──武装蜂起を掲げ


 「霞が関や永田町の政府中枢の一角を占拠して『人民政府』樹立を呼びかけ、三日間でも持ちこたえて玉砕すれば、政治闘争の局面も大きく流動化させることができるはずだと思った」

 「赤軍派」元議長、塩見孝也(五二)=京大中退=は二十五年前をこう振り返る。

 結成時からの赤軍派のリーダーで仲間からは「日本のレーニン」といわれた塩見が出所したのは平成元年十二月のこと。破壊活動防止法違反(予備・陰謀)などで懲役十八年の実刑判決を受け、未決拘置期間も含めて十九年九カ月に及ぶ獄中生活だった。

 その二十五年前の昭和四十四年、日本国内は沖縄の返還交渉をめぐって揺れ動いていた。

 この年、米国が「共産化を防ぐ」として南ベトナムに派遣した兵力は朝鮮戦争を上回る五十万人以上に達し、中でもB52戦略爆撃機をはじめとする沖縄駐留の米戦力が重要な役割を果たしていた。

 日米安全保障条約に付属する交換公文では、日本からの米軍の戦闘作戦行動や、(核兵器持ち込みなど)重要な装備変更を両国政府の「事前協議」の対象としているが、社会党など野党勢力は沖縄返還を機に事前協議を骨抜きにしようとしている、として激しい政治行動を展開した。

 さらに、「大学闘争」の勢いを再び拡大させようとする新左翼勢力は、日米首脳会談のため十一月十七日に予定された佐藤栄作首相の訪米実力阻止を叫んでいた。

 だが、もっと破天荒なことを考えていたのが「共産主義者同盟(ブント)」内の、急進的な勢力が結成した共産同赤軍派だった。

 東京・永田町の首相官邸を武装襲撃し占拠するという過激な計画だった。しかも、その際、「人民の名において」佐藤首相を“逮捕”することまで行動目標に含んでいたという。
昭和44年11月5日、山梨県の山荘「福ちゃん荘」前で機動隊に逮捕された赤軍派学生ら。首相官邸を占拠する計画だった
昭和44年11月5日、山梨県の山荘「福ちゃん荘」前で機動隊に逮捕された赤軍派学生ら。首相官邸を占拠する計画だった
 塩見は今、「急進民主主義の極左路線(テロリズム)は間違いで、否定されなければならない」と言い切る。だが、当時の赤軍派はゲバ棒と火炎ビンで機動隊と渡り合っていた新左翼各派をはるかに超える「武闘路線」を突っ走ろうとしていた。

 佐藤首相訪米に先立つ十月二十一日の「国際反戦デー」に向けて、鉄パイプ爆弾の製造に成功、都内の東京薬科大構内に約六十本を運び込んでいた。しかし、これを警視庁に押収されてしまい、爆弾闘争の火ぶたを切ろうというもくろみは失敗した。

 それから約二週間後の十一月三日。東京から西に約百キロ離れた山梨県塩山市の大菩薩峠にある山小屋「福ちゃん荘」に、ナップザックなどを背負ったハイキング姿の若者たちが三々五々集まってきた。「ワンダーフォーゲルの合宿」という触れ込みだったが、全国の大学などから集められた赤軍派の学生だった。その数は約五十人。高校生もかなり含まれていた。

 「10・21闘争の失敗は“軍事技術”の未熟さによるもので、それを克服するための軍事訓練が必要だと考えた」と塩見は総括する。そして、「政府中枢占拠は、この軍事訓練の結果をみて決めることになっていた」ともいうが、一方で赤軍派内部では、「首相官邸襲撃-占拠」の準備が着々と進められていた。

 そのための武器として、再び強力な破壊力を持つ鉄パイプ爆弾が、福島医大や弘前大などの赤軍派学生によって秘密のアジトで大量に製造された。親せきなどが持つ猟銃をこっそり持ち出す作戦も練られた。オノやナイフなどの武器も集められた。

 だが、その「首相官邸占拠」も結局は幻(まぼろし)に終わる。

 この少し前から、公安当局は過激な武闘路線をとる赤軍派にようやく警戒を強めはじめ、割り出したメンバーの張り込みを続けていた。その監視の網に、千葉市内のアジトから大菩薩峠での軍事訓練に参加しようとした赤軍派学生がひっかかったのだ。

 総武線から中央線を乗り継いで現場に向かう学生を千葉県警、警視庁がリレーして尾行。「福ちゃん荘」が突き止められた。十一月五日未明、政治局員二人も含めた五十三人が凶器準備集合罪容疑などでいっせいに逮捕された。

 この知らせを塩見は、連絡場所にしていた都内の喫茶店で聞いた。「公安当局に簡単に尾行される未熟さを露呈したという恥ずかしさと、赤軍派は口先ではなく本気で武装蜂起しようとしていることが、これでわかってもらえるとも思った」と複雑だった。

 赤軍派が結成されたのは四十四年五月のことだった。四月二十八日の「沖縄返還デー闘争」が、結局は圧倒的な警察力に封じ込められたという「総括」から、「関西ブント」を中心に生まれた。しかし、ブント内の反対派との抗争は激しく、七月には塩見ら赤軍派の四人が東京・駿河台の中央大に約二十日間も監禁されるという事件が起きる。

 このとき、塩見とともに捕らえられた赤軍派の元政治局員、物江克男(四六)=当時、滋賀大生=は、監禁中に携帯ラジオで米国のアポロ11号が人類初の月面着陸に成功したニュースを聞いたのをいまでも鮮明に記憶している。

 物江は「人類史が、そして社会が動いている」と奇妙な感動にとらわれた。しかし、物江にはそのとき、赤軍派やその後の自分の運命がどうなっていくのか、予測するすべもなかった。