青山学院大学教授 福井義高

知識人こそ最も簡単に プロパガンダに心奪われる  ジャック・エリュール

反EU勢力躍進の衝撃

 5月下旬にEU加盟各国で行われた欧州議会選挙で、既成政党のみならず主流メディアも一体となって行ったネガティブ・キャンペーンにもかかわらず、EU統合推進反対派が大きく票を伸ばした。英仏では既成政党を抑え、ナイジェル・ファラージュ党首率いる英国独立党(UKIP)とマリーヌ・ルペン党首率いる国民戦線(FN)がそれぞれ3割近く得票し、第一党となった。こうした「右」の政党だけでなく、ギリシャなどでは「左」の反EU政党も躍進した。

 反EU政党は、英国独立党やドイツのための選択肢(AfD)などEU懐疑派と、国民戦線やオーストリア自由党(FPO)など「極右」に二分されることが多い。既成政党や主流メディアから見て、その主張の中身やスタイルがぎりぎり許容範囲に入るのが懐疑派、逸脱するのが「極右」ということなのだろう。

 たとえば、反移民といった場合、英国独立党がEU拡大で増大する東欧からの貧しい白人労働者の流入を強調するのに対し、国民戦線は中東アフリカからの非白人移民抑制を鮮明にしている。こうした力点の相違が懐疑派と「極右」を区別する基準と思われる。

 英国の独自性を尊重しつつ、小さな政府及び自由貿易を志向する英国独立党は、現在の保守党以上にマーガレット・サッチャー首相時代の保守党に近いとすらいえ、非白人にも支持を呼びかけるなど、国民戦線など「極右」と一線を画すことに努めている。

 しかし、英国独立党の躍進は内紛で自滅した「極右」英国国民党(BNP)支持層取り込みによる部分が大きいし、結局、非白人が多数を占めるロンドンで得票率が大幅に低かった(労働党の半分以下で保守党にも及ばない第三位)ことからわかるように、非白人に英国独立党支持者はほとんどいないと思われる。一方、「極右」国民戦線も、従来指摘されてきた反ユダヤ的傾向のマイナス・イメージを払拭するため、ルペン党首は前党首である父ジャン=マリー・ルペンと異なり、親イスラエルを標榜している。

拍子抜けするほど穏当な「極右」の主張

 それでは一体、「極右」国民戦線はどのような主張を行っているのであろうか。その政策大綱(Notre Projet)で明らかにされているEUや移民に関する具体的主張は、極端な意見というよりも、意外(?)に「普通」なのである。

 まず、通貨統合が各国経済にダメージを与えているので、ユーロを廃止し独自通貨に回帰すべきという主張は、その実現可能性はともかく、経済合理性にかなっている。西村淸彦日本銀行副総裁(現東京大学教授)が講演(2012年3月5日)で指摘しているように、「ユーロが導入されたのは、最適通貨圏の前提条件が満たされたからではなく…メンバー国のアイデンティティを維持したままでも最終的には経済条件が本当に『収斂』するはず」という根拠薄弱な希望的観測に基づいたものであり、案の定、「貿易や金融を中心とした様々な不均衡(インバランス)が蓄積し…為替レートが調整される余地がないなかで、適切な調整メカニズムを欠いていたために、債務危機へとつながっていった」。

 つまり、正統的経済理論の立場から見て、ユーロに経済合理性はないということである。本来、モノの移動の自由すなわち自由貿易と通貨統合は無関係であり、伝統的に経済合理性を重んじる英国はユーロに参加せず、独自通貨ポンドを維持している。

 次に、移民については、全面禁止ではなく現状の年間二十万人を一万人に抑え、同化政策を進めることで、フランスのアイデンティティを強化することを訴えている。既成政党や主流メディアは移民排斥論と非難するものの、国民戦線が共和制モデル(modele republicain)の再確認と呼ぶこうした主張は実際、一昔前まで自由主義者や(反共)社会民主主義者の間でも常識であった。

 たとえば、二十世紀を代表する法哲学者ハンス・ケルゼンによれば、「多数決原理の適用には、いわばある自然的な限界が設けられている。多数と少数とがお互に調和しなければならぬとすれば、お互に意思が疎通しえなければならない。…多数決原理は民族的に単一な団体(ein national einheitlicher Korper)の内部においてのみ完全な意味をもつ」(『デモクラシーの本質と価値』1929年第二版)。

 また、ケルゼンの友人で同じくオーストリア出身の大経済学者ヨーゼフ・シュンペーターも、デモクラシーが機能するのは、「重要なあらゆる利害関係者が、実際上なんらの異議をも唱えることなしに(practically unanimous)祖国に対する忠誠と現存社会の構造的原理に対する忠誠とを誓う場合だけである」といっている(『資本主義・社会主義・民主主義』1950年第三版)。

 ケルゼンやシュンペーターという、本来の意味での「リベラル」すなわち政治的自由主義者が、こうした不朽のデモクラシー論を書いた20世紀前半と今で状況が大きく変わったわけではない。多文化共生推進論者のロバート・パットナム・ハーバード大学教授は2007年に、移民流入が共同体の社会的連帯感、異なるグループ(人種)間はもちろん、同じグループ内の連帯感も低下させることを示した実証研究を、長年の逡巡の結果、学問的良心から公表に踏み切り、学界に大きな衝撃を与えた(『スカンジナビアン・ポリティカル・スタディーズ』30巻2号)。

 黄色いフランス人、黒いフランス人、褐色のフランス人がいれば、それは素晴らしいことだ。その存在は、フランスがすべての人種に開かれ、普遍的使命を持つことを示す。ただし、その数がほんの少数(petite minorite)に過ぎない場合に限られる。さもなければ、フランスはもうフランスでなくなる。我々は何にも増して白色人種の、ギリシャ・ラテン文化の、そしてキリスト教の欧州の民なのだ。

 これはルペン党首でも他の「極右」政治家でもなく、二十世紀フランス最大の英雄にして今に続く第五共和制の父であるシャルル・ドゴールの大統領在任中の言葉である(アラン・ペールフィット『それがドゴールだった』未邦訳)。

 さらに、移民の経済効果については、当該問題研究の第一人者であるジョージ・ボージャス・ハーバード大学教授が米国経済に与える影響を次のように総括している。

 移民が全体として既存国民に与える影響は小さい(GDP0・2%増)ものの、それとは桁違いの所得再配分(GDP3%)をもたらす。具体的には移民労働と競合する労働者の賃金が特に低下する一方、移民労働を利用する企業や個人が大きな利益を受ける(2013年4月移民研究センター報告)。英国経済への影響に関しても、年金等財政メリット論の全面否定も含め、2008年に英上院経済問題特別小委員会が同様の見解を明らかにしている。要するに、移民受入策とは所得格差を拡大する、極論すれば貧困化促進策なのである。

既成保守政治家は「言うだけ番長」

 現在のEU拡大・統合推進や大量移民受入は、戦後欧州再建を主導したドゴールらが健在の時代には考えられない、一般大衆にとって益なきエリートの暴走といえる。そして、この暴走を抑えるどころか、結果的に追随してきたのが既成保守勢力なのだ。なお、ここでは「エリート」を政治、経済、教育あるいは言論で指導的役割を担う、少なくとも欧米ではいわゆるリベラルが主導権を握る社会階層の意味で使っている。

 2005年、パリ郊外の移民居住地域での事件を発端にフランス全土に広がった大規模暴動の際、ニコラ・サルコジ内相はその強硬姿勢で人気を博し、2007年には大統領に選ばれた。しかし、国民の期待に反し、大統領在任中、なんら有効な移民規制策を実行することができなかった。

 また、英国で1997年から2010年まで続いたトニー・ブレア及びゴードン・ブラウン労働党政権によって推進された移民受入拡大策(13年間で200万人以上)からの転換を期待されたデービッド・キャメロン保守党(連立)政権も、移民規制を唱えはするものの、やはり実効性ある手段をとるまでには至っていない。

 欧州の既成保守政治家は、移民規制を求める世論に同調する発言はするものの実行は伴わない「言うだけ番長」なのだ。

 今回の反EU政党の躍進は、具体的政策への支持というより、エリートの裏切りに対する根拠ある抗議というべきだろう。グローバル化について行けない愚かな大衆の間で排外思考が高まっているというような見方は見当はずれも甚だしい。BBCのヒュー・スコフィールドがいうように、「望まない結果を無視するのであればデモクラシーは無意味である」(2014年5月26日BBCインターネット版)。

好戦的なのは大衆ではない

 たとえば、「移民などの『外』の存在、あるいは共通通貨ユーロをスケープゴートにすれば、信頼を取り戻せるのか。大衆迎合的な人気取りの政治が前世紀の欧州にもたらしたのは、戦火だったことを忘れてはならない」という朝日新聞の梅原季哉欧州総局長の見解(5月27日朝刊)などはその典型である。ネトウヨ批判との類似性は明らかであろう。 とはいえ、デマゴーグのプロパガンダに左右され、排外・好戦的主張に飛びつく大衆の危険性というのは、知識人による大衆批判の定番である。今回の欧州議会選挙の結果についても、こうした視点からの論評が、欧州のみならず日本でも目につく。


 しかし、本当に「危険」なのは大衆なのだろうか。実は、知識人が偏愛する大衆社会論は、リチャード・ハミルトン・オハイオ州立大学名誉教授が『大衆社会、多元主義及び官僚制』(未邦訳)で総括しているように、驚くほど実証的根拠に乏しい、一種の「物語」に過ぎない。

 たとえば、1964年のトンキン湾事件を機に本格化した米国のベトナム軍事介入を米国民はどのように見ていたのか。介入時の1964年と反戦機運が高まった1968年でエリートと大衆の見方がどう変わったのかを、ハミルトン教授の世論調査に基づく実証研究(『抑制する神話』(未邦訳))を用いて作成したのが次頁の表1である(「わからない」という回答は除外して計算)。

 全体では強硬策(stronger stand)の支持率が1964年の49%から1968年の37%に低下し、戦争が長引くにつれ厭戦あるいは反戦気分が高まったことが見て取れる。しかし、エリートと(下層)大衆では当初、戦争への態度が大きく異なっていた。

 まず、職業で分けて見ると、上層ホワイトカラー(専門職・管理職)の強硬策支持が55%から38%と大幅に低下したのに対し、非熟練労働者・失業者は38%から35%で、最初から強硬策支持率が低く、変化は誤差の範囲といえる。

 次に、学歴で分けて見ると、大卒以上の強硬策支持が58%から33%とやはり大幅に低下したのに対し、中卒以下(就学年数8年以下)は32%から33%で、最初から強硬策支持率が低く、変化はこれまた誤差の範囲といえる。なお、現在と違い当時は大学進学率が低かったので、大卒というのはかなりのエリートであったことにご留意いただきたい。

 つまり、職業で見ても学歴で見ても、庶民は最初から軍事介入に積極的ではなく、当初、「正義」の戦いに熱狂したのはエリートであることがわかる。しかも、庶民の見方が安定しているのに対し、エリートは意見を大幅に変え、ある意味、戦況が悪化した1968年になって、やっと庶民の「素朴」な考えに追い付いたのである。

 なぜエリートは豹変したのか。実は、当初、大半の新聞や雑誌が軍事介入に積極的であったのに、1968年の時点では逆に介入批判が基調となっていた。大衆社会論の主張とは逆に、メディアに操作されたのは上層中産階級であり、大衆はほとんどそうした影響を受けなかったのである。要するに、「風」に弱く、プロパガンダに左右されるのは「学のある」エリートなのだ。

自己欺瞞に長けたエリート 

 世界民主化の使命感に燃えるエリートの一部を除けば、米国では孤立主義的傾向が根強いことを考えると、厭戦気分濃厚な大衆と好戦的エリートという組み合わせは、ベトナム戦争が特異というわけではなく、むしろ普遍的現象である。

 米国の政治支配層や主流メディアからは保守ポピュリスト勢力として否定的に扱われているティーパーティー運動が次の大統領選挙の共和党候補として期待するランド・ポール上院議員(ロン・ポール元下院議員の息子)は一貫して軍事介入に懐疑的であるのに対し、リベラル知識人が支持する民主党最有力候補ヒラリー・クリントン前国務長官は名うての対外強硬論者である。

 実は欧州も事情は変わらない。反EU政党は基本的に、「人道」を旗印とする米国主導の他国への軍事介入に批判的である。主流メディアに排外的と批判される「極右」国民戦線も反欧州というわけではなく、パリ―ベルリン―モスクワを基軸とする主権国家を構成単位とする汎欧州連合(Union paneuropeenne)を提唱し、欧州外の対立に関しては均衡・仲介勢力(puissance d'equilibre et de mediation)を目指すとしている。いずれにせよ、反EU政党が好戦的でないことだけは確かである。

 そもそも、ハミルトン教授が指摘しているように、第二次大戦後、著名な政治社会学者シーモア・マーチン・リプセット(『政治のなかの人間』)らの影響で見方が逆転するまで、少なくとも第一次大戦が始まるまでは、好戦的なのは上流及び上層中流階級というのが社会的共通認識であった。

 要するに、好戦的であることがプラスの価値であった弱肉強食の帝国主義全盛時代には、エリートが好戦的であることが堂々と主張されたのに対し、反戦平和がプラスの価値として確立した第二次大戦後は、根拠もなく大衆に比べエリートは平和的とみなされるようになったわけである。しかし、実際は帝国主義時代と同じく、エリートの好戦的傾向は変わっていない。

 とはいえ、やはり大衆の方がエリートより閉鎖的で排他的ではないのかという疑問を持たれる向きもあろう。確かに今日、欧米で表立って多文化共生を否定するエリートは少ない。ただし、建前と本音の使い分けが巧みなのが、これまたエリートの特徴である。デービッド・シキンク・ノートルダム大学准教授らの実証分析によれば、子供の教育に関して、白人は学歴が高くなるほど白人比率の高い学校を選ぶ(『エスニック・アンド・レイシャル・スタディーズ』2008年31巻2号)。

プロパガンダに弱いエリートと政治に無関心な大衆

 なぜエリートはプロパガンダに左右されやすいのだろうか。この点に関しては、半世紀以上前に公刊された『プロパガンダ』(未邦訳)で、ジャック・エリュールが説得的かつハミルトン教授らの実証分析と整合的な見方を提示している。

 知識と教養を誇るエリートは確かに多くの情報に接して、それを吸収しようとする。とはいえ、そのほとんどは真偽を自ら確かめることができない、二次情報に過ぎない。エリートの自負ゆえ、政治経済文化全般の重要とされる問題に「自分」の意見がないことに我慢できない一方、現代社会は複雑であり、事実を冷静に吟味し判断することなど、限られた少数の問題以外不可能である。それゆえ、重要な問題にお手軽な「解決」を提供するプロパガンダは、エリートにとって魅力的なのだ。

 もちろん、エリートは自分にはプロパガンダなど無効だと信じている。そして、それこそが最大の弱点となる。エリートはこの根拠のない自信と優越感を利用され、容易にプロパガンダに取り込まれてしまう。

 エリートに強硬論が支配的だった1960年代半ば、すでにベトナム戦争には勝てないと確信していたコンラッド・ケレンは、『プロパガンダ』英語版序文でこう指摘した。知識人たるエリートは「自分たちは『独自に判断』できると考える。彼らは文字通りプロパガンダを必要とするのだ。」

 だからといって、単純な大衆礼賛論も根拠がない。大衆のプロパガンダに対する耐性は、政治的無関心と表裏一体である。この問題に関する実証研究が盛んな米国の例でいえば、2000年大統領選挙前の世論調査で、上下両院で多数党はどちらかという二択問題(でたらめに答えても正解率50%)の正解率は、下院が55%、上院が50%であった(イリヤ・ソーミン『デモクラシーと政治的無知』未邦訳)。

 プロパガンダに弱くイデオロギーに囚われたエリートと政治に無関心な大衆。この現実を前にしては、左右の知識人が口角泡をとばすデモクラシー論が空虚に響く。

秘密投票は自由の最後の砦 

 デモクラシーのモデルとされる米国でさえ、大多数の国民は政治には無関心であり、シュンペーターがいうように「民主主義という言葉の意味しうるところは、わずかに人民が彼らの支配者たらんとする人を承認するか拒否するかの機会を与えられているということのみである。」

 とはいえ、「真」のデモクラシーからは程遠くとも、秘密投票による政権交代の可能性が存在することは、支配される者すなわちほとんどの国民にとって、大きな意味を持つ。

 確かに、日常とは直接関係のない政治問題についてはよくわからなくても、「自分の個人的な観察のもとにある事柄や新聞によって伝えられるものではなしに自分の熟知しているもの」に関しては、「できうるかぎり合理的に活動しようとする意向や合理性へのたえざる要求がみられ」る。

 エリートが推進する大量移民受入がもたらす治安悪化や賃金低下といった現実、だからといって口先だけの既成保守政治家も頼りにならないという現実は、難しい政治問題ではなく、まさに「個人的な観察のもとにある事柄」である。素直に実感を吐露すると人種差別主義者と糾弾される今日、自由の最後の砦である秘密投票で、多くの欧州国民は「王様は裸だ」と叫んだのである。

 本当に「支配者たらんとする人を承認するか拒否するかの機会」である国政選挙を念頭に、欧州議会選挙結果を受けて早速、フランソワ・オランド仏大統領はEU統合推進抑制論を唱え、大統領選時の重要公約であった外国人への地方参政権付与もあっさり撤回した。英国でも、移民急増で不利益を被っている伝統的支持層への配慮を求める公開書簡を労働党七議員がエド・ミリバンド党首に送った。こうした新たな動きは、大衆迎合というよりも、デモクラシーが欧州でまだ完全には機能不全に陥っていないことを示しているのではなかろうか。


福井義高
昭和37年(1962年)京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph・D。国鉄、JR東日本勤務などを経て、平成20年より現職。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『会計測定の再評価』(中央経済社)など。