天正10(1582)年6月2日、織田信長が家臣の明智光秀に討たれた本能寺の変の直前、四国最大の大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が光秀の重臣に送った1枚の手紙が最近見つかり、話題になった。直前に迫った信長の四国派兵を恐れた元親が信長に従うとした内容で、信長軍の出撃日と本能寺の変の日が重なるだけに、関連資料として、より注目される結果となった。一戦も辞さない覚悟とみられた元親の気弱ともとれる意外な内容だが、ここから光秀がどのように刺激され、本能寺へ結びついていったのか。大胆に仮説を立ててみた。

 信長の指示に従い…

 信長と元親の関係は当初は良好で、光秀を交渉の窓口に、四国で元親が占領した分はすべて所領にしてもよい-などとする信長の約束をとり付けている。ところが、元親と争う阿波の三好氏が信長に接近して以降、信長と元親の関係はしだいに悪化。ほぼ四国全土を手中に収めていた元親に、信長は土佐と阿波の南半分以外をすべて返還するよう命じる。

 当初の約束をほごにされた元親は信長の命令を拒否し、天正9年には交渉も決裂すると、反織田勢力の毛利氏と同盟を結び、この時点で信長との戦いは必至の状態となった。

 そして信長が天正10年5月上旬に四国攻めを決定。三男・信孝を総大将に摂津と和泉に数万人を集結させる一方、先陣の三好康長が阿波北部の城を攻撃。長宗我部勢はほとんど抵抗することなく、阿波南部に退却している。

 手紙はこういった状況の中、元親が、かつて信長との交渉窓口だった光秀の筆頭家老で、婚姻などを通じて親類関係にあった斎藤利三宛てに5月21日付で送っている。

これによると、阿波の一宮、夷山、畑山の諸城からは撤退するが、海部、大西両城は土佐の出入口にあたるので、このまま領地としたい。信長が甲斐の武田征伐から帰ってきたら、従いたい-などといった内容になっている。

 光秀の意図

 手紙の日付から10日後の6月2日に本能寺の変は起き、ついに信長は光秀に倒される。この日は、信孝が四国に向けて出撃する日でもあり、これは単なる偶然だろうか。

 長宗我部、明智両氏は親族なのだから、信長の四国征伐を阻止する目的で、密約があったという予測も成り立つ。しかも、信長配下の有力武将は他の戦いに明け暮れて、京都には誰もいないといった好材料がそろっていた。

 信心深い光秀と比叡山を焼き打ちにするような信長とは水と油。光秀が敬う朝廷を信長は軽視し、自分の領地の近江、丹波までも召し上げようとする信長を光秀はどうしても許せなかったのでは。

 そこで信長の殺害を決意するのだが、光秀が自分に味方する勢力などを考えるにあたって、まず思い浮かんだのが、室町幕府第15代将軍の足利義昭だったのではなかろうか。光秀がかつて仕えていた義昭は信長に京都を追放されて毛利領の備後・鞆(とも)に身を寄せていたとはいえ、このときはまだ征夷大将軍の地位のままである。

 この義昭を担ぎ出し、良好な関係を築いてきた朝廷からの支持を得て幕府を再興すれば、かつての足利氏家臣、細川藤孝や義昭の面倒をみてきた毛利氏の援助も期待できる。さらに相当に切羽詰まった心情が伝わってくる元親の手紙を見た光秀は「信長を倒すことを条件に味方になってくれるだろう」と確信したに違いない。

このため、元親の手紙を受け取るとすぐに、光秀は「四国出撃の日の6月2日に信長を討つので、手を貸してほしい」といった内容の手紙を元親に送った可能性もある。それどころか、時間も押し迫っていたので、正確に作戦を伝えるため、直接に家臣を四国へ赴かせたかもしれない。

 ターゲットは秀吉?


 ここで考えられる元親の役割はやはり、毛利攻めで備中高松城にいた羽柴秀吉の背後を突くことだったと推測する。

 長宗我部軍は、「一領具足(いちりょうぐそく)」といわれる、ふだんは領地で田畑を耕している武装農民を主体としていただけに結束力が高かったのに対し、信長軍の兵は雇い兵が多かった。

 雇い兵はすぐに数がそろえられる半面、集団としての結びつきが希薄で、四国攻めの兵は信長の死で混乱したというから、元親からすれば、備中にいた3万の秀吉軍をターゲットにすればよいということになる。

天王山の戦いに敗れた明智光秀が逃げ込んだとされる勝竜寺北門跡

 

 しかも、秀吉軍とにらみ合うのは、長宗我部と同盟関係にある約4万の毛利軍である。本能寺の直前まで信長の威光の下で元親と戦っていた三好軍が信長の死で動揺している隙に、長宗我部の家臣、池頼和(いけよりかず)率いる水軍の力を借りて秀吉の背後をつけば、勝利の可能性も高くなる。

 ただし元親に問題になることがひとつあった。農民が兵の主力となっていた元親軍にとって、5月から6月初旬は田植えの時期にあたることだった。

 「強力な信長の兵に対して、どれだけの兵がそろうのだろう?」。あの気弱ともとれる光秀への書状の裏には、こういった背景も隠されていたのではないだろうか。 このあたりから、光秀の思惑のほつれが始まったようにも思う。(園田和洋)