ニイタカヤマノボレ


 昭和15年、日本軍はそんなアメリカのいらだちを知りながら北部仏印に進駐すると、ドイツ、イタリアと軍事同盟を締結。16年には南部仏印に進出したことでアメリカとの対決姿勢はさらに鮮明となった。

 そんな状況下、連合艦隊司令長官の山本五十六大将は、アメリカと戦うならばまずハワイのアメリカ太平洋艦隊を潰し、その後の戦いを優位に進めるしかないとして航空機による攻撃を計画する。

 航空母艦(空母)6隻と航空機400機という世界でも類例のなかった機動部隊を編成すると、対米交渉中にもかかわらず、宣戦布告直後の奇襲攻撃を狙って11月22日、ハワイに進路をとった。

 それから10日後にあたる12月2日、荒れ狂う太平洋上を進む空母「赤城」の艦橋内で、機動部隊の指揮をとる南雲忠一中将は依然として定まらない対米交渉の行方を気にしながら、雨と波がたたきつける窓の外をみつめていた。

 結果次第では引き返すことも考えられたが、午後5時半、ドアが開き、やや興奮の様子で入ってきた通信参謀が「長官、電文であります」と山口の連合艦隊から送られた電文を差し出してきた。

 南雲が「読め」と静かに指示すると、しっかりした口調で「本文、ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」と読み上げた。12月8日に開戦すべしとする内容だった。

 ニイタカヤマ(新高山)は、日本が当時、統治していた台湾の山(現在名は玉山)。標高が3、952メートルと富士山より高い、日本の最高峰だった。

 電文を聞いた南雲は隣の参謀長、草鹿龍之介少将の方を見て、「うまくいくのかな」と話しかけたともいわれている。


当時の世相映した国策映画「潜水艦1号」


 対中戦争を進める日本は昭和14(1939)年に映画法を制定すると、「海軍爆撃隊」「燃ゆる大空」などといった、娯楽色を廃して軍国主義を強めた映画の製作を強制的に進めるようになる。「潜水艦1号」もそんな1本。
真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇=広島県江田島市の海上自衛隊
真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇=広島県江田島市の海上自衛隊
 アメリカと対決色を強めていった昭和16年5月に公開されている。明治43年、技術的に未熟の域にあった潜水艇の艇長として乗り込んだ久間勉大尉は沈没事故で生命が絶望視される中、冷静に艇内の様子を記録した精神力は当時の軍人の手本ともされていた。

 映画は、そんな佐久間大尉の故郷で育った少年2人のうち、1人がのちに潜水艦の設計士として最新鋭艦を設計し、もう1人が艦長としてその艦に乗り込んで試験航海に臨むといった内容になっている。

 まだ戦闘シーンがあるわけではないが、「必ず米英と戦うときが来る」と艦内の居住性を廃して、武器などに重点を置いて新鋭艦開発を進める姿に、当時の緊迫した世相を垣間見ることができる。