筒井清忠 帝京大学教授
北村稔 立命館大学名誉教授
等松春夫 防衛大学校教授


実証的昭和史として


筒井 間違いの多い不正確な昭和史の本が広く読まれているという困った状況のなか、きょうは、実証的で正確な昭和史を広めたいという私の主張をよく知ってもらうよい機会になりそうですので、やってまいりました。さて、さっそく主題の満洲事変のことですが、どういう経緯で満洲事変が起こったかについては、さまざまに語られてきました。が、いま一つわかりにくいのは、日本側の軍事行動の当事者の石原莞爾らだけから事変を見たり、リットン調査団の報告書の一面的理解だけで片づけてしまったりしているからだと思います。軍隊が実際に動くに至るまでには、もっと複雑で色々な事情が交錯しているはずです。
筒井清忠『満州事変はなぜ起きたのか』
(中公選書)
筒井清忠『満州事変はなぜ起きたのか』 (中公選書)
 そこで自分自身で調べてみると、「満洲事変で軍の暴走が始まった」というような単純な話ではなく、それ以前にいろいろな経緯があり、その結果として満洲事変が起きていることがよくわかりました。「満洲事変─日中戦争─日米戦争」という以後の流れだけから説明できるほど事態は簡単なものではありません。日露戦争が終わった明治末期から満洲事変が起こった昭和初期までのほぼ四半世紀にわたる出来事をよく理解する必要がある。それらをまとめたのが『満州事変はなぜ起きたのか』(中公選書)です。  
 この時代、各国から不平等条約を押しつけられていた中国には大きな不満がたまっていた。一方、日本の側には、当時の国際法によって認められた範囲で当然のことをしているという思いがある。そこに両者の根本的な見解の相違がありました。そういう日中関係にアメリカ、イギリス、それにドイツ、ソ連などの思惑が絡んで、非常に複雑な国際関係が展開していた。最終的には、中国はターゲットを日本一国に絞って欧米諸国とうまく関係を取り結び、対日包囲網を形成しました。そうしたなか、日本の行動は色々な意味で単純に過ぎたと言わざるをえません。
 これは現代にも通じるところがあって、イギリスは最近中国中心のアジアインフラ投資銀行AIIBに突然入って驚かされましたし、訪英した習近平国家主席を「大歓迎」しましたが、イギリスが中国に対して抜け駆け的行動をとる傾向があるのは、一九二六年に「十二月メモランダム」という中英提携を突然発表して日本から「ワシントン条約の精神を無視し」たと強硬に抗議された時と変わっていません。
 また、中国と最初に平等な条約を結び、日中戦争時に蔣介石を軍事支援していたドイツは、現在のメルケル首相に至るまで非常に親中的です。
 こうした大国間の複雑な関係の中でワシントン条約体制という国際協調関係に一番忠実だったつもりの日本は気が付いたら孤立していた。日本が国際社会において失敗を繰り返さないようにするためには、こうした孤立に陥らないようにすることが大事ではないかと思います。

「国際中間地帯」


等松 日本の近現代史を国際的文脈の中に置いてケース・スタディとして見ると、国際連盟を脱退した日本が、なぜそれ以降も国際連盟規約で規定されていた委任統治を南洋群島において続けられたのかという疑問がわきます。一九三〇年代には満洲問題と南洋群島の問題がパラレルで出てくる。英仏豪のような国際連盟の委任統治に関わっている国々、あるいは米ソ独のような南洋群島に関心のある国々はそれをどう見ていたのか。満洲事変は日中間の問題であると同時に、誰が実効支配しているかよくわからない曖昧な地域を巡る紛争、つまり世界的に存在していた問題の一つでもあったのです。
 そのことに一部の先覚者は当時から気づいていて、たとえば神川彦松という著名な国際政治学者は、複数の国家が権利を主張する地域を「国際中間地帯」と呼んでいました。ヨーロッパでいえばバルカン半島やクリミア半島やシレジア地方がそれにあたり、帝国主義の時代には列強のせめぎ合いの場になっていた。のみならず現地のローカルな勢力もそれぞれの思惑のもとに蠢いている。ご承知のように第一次世界大戦はバルカン半島というヨーロッパの国際中間地帯を巡る争いから始まりました。いま現在でもクリミア半島では同様のことが生じています。これは普遍的な、現在でも解決されていない問題です。東アジアにおいては満洲がまさに「国際中間地帯」でした。満洲は日中間だけの問題ではなかった。
 第一次世界大戦後に国際連盟が作られ、委任統治制度が設けられた目的の一つも、国際中間地帯における武力紛争を避けるためでした。そういう観点から満洲事変を見ると、帝国主義批判、あるいは日中関係のみで見るのとはずいぶん違う景色が見えてきます。
 一九三二年秋に発表された「リットン報告書」を読み直してみると、満洲をどのようなかたちで国際管理下におくか、治安をどう維持するかに関して、公表されていない部分では、連盟主導の暫定統治であるとか、現在で言う多国籍の平和維持軍のようなものまで、複数の構想があったことがわかります。ところが日本がリットン報告書を不服として早々と国際連盟からの脱退を通告してしまったため、そこから先の議論が進まなかったのですが、蔣介石は中国の権利さえ保障してもらえれば満洲をしばらくのあいだ国際管理下におくことに基本的に賛成でした。
 実は日本でも、「リットン報告書」が発表されたときには、外務省や陸軍の一部には国際連盟の提案を受け入れて考え直そうという意見があった。しかし、満洲国に対する世論の熱狂的な支持があったり、満鉄や関東軍が権益を手放そうとしなかったりで、「リットン報告書」の構想は幻に終わりますが、実は国際的な正統性を獲得できれば満洲国も生き延びることができたのかもしれないのです。