櫻田淳(東洋学園大学教授)

 永井陽之助が著した『平和の代償』には、「伊藤博文は日露戦争を『邏卒番兵の役』であると認識していた」という趣旨の記述がある。明治・日本が死力を尽くした対露戦争の実相は、往時の覇権国家たる大英帝国の「代理戦争」であった。こうした実相を怜悧に察知していたのが、伊藤を含む明治・日本の政治指導層の「卓越性」の所以である。

 此度の日韓合意にも、似たような風景が浮かび上がる。筆者は、此度の日韓合意に際しては、日本にとっての外交の相手は、「韓国」ではなく「米国」なのであろうと評価していた。米国を含む西側同盟のネットワークの中で「弱い環」になっていたのは、従軍慰安婦案件を含む歴史認識摩擦に揺れる日韓関係であったとすれば、その修復にどれだけ誠実に臨んでいるかは、西側同盟ネットワークのメンバーとしての存在証明になる。

 当代の日本は、伊藤博文が大英帝国の「邏卒番兵」と認識した明治・日本ほど矮小な立場ではないにせよ、それでも覇権国家・米国の「ジュニア・パートナー」としての役割を引き受けてきた。昨今、ロシアによるクリミア併合や中国の南シナ海進出のような国際政治上の動きは、そうした役割の拡大を要請している。昨年の安全保障法制整備や「日米防衛ガイドライン」改定も、そうした要請に応える政策対応の一環であった。日本政府にとって、此度の日韓合意もまた、そうした政策対応の延長線上にあるものであろう。しかも、朴槿恵が政権発足以来、示してきた「対中傾斜」姿勢が露骨であればこそ、日本には、前に触れた西側同盟ネットワークのメンバーとしての存在証明を明確にすることは大事であったということである。
会談する安倍晋三首相とオバマ米大統領=2015年11月19日、マニラ(共同)
 一方、朴槿恵が国内政治上、どのように、この合意の履行をハンドリングできるかというのは、日本政府が容喙する話ではない。この合意が国際社会の衆人環視のものになれば、「出来たか、出来なかったか」という結果が問われる他はない。多分に十億円を供出してしまえば、「やることはやった」と説明がつく日本政府とは対照的に、韓国政府には、国内世論の懐柔から財団の設置・運営に至るまで、「やらなければならないこと」が積み重なってくる。韓国メディアは、此度の合意に反発する韓国国内の声を様々に伝えているけれども、もし、韓国政府が、そうした声に押されて此度の合意を反故にする挙に走れば、それは、韓国が西側同盟ネットワークから実質上、放逐される事態を招くであろう。米国を含む西側同盟諸国の支持という担保によって、韓国の対外行動に一つの「拘束衣」を着せたのが、此度の合意の意義である。

 しかも、対日「歴史認識」共同戦線を張っていたはずの中国に対して、此度の「抜け駆け」合意をどのように釈明するかという課題も、韓国政府には重く圧し掛かってくるはずである。任期の半分を過ぎた朴槿恵は、このようにして一挙に積み重なった課題を片付けることができるのか。結構、難しいというのが客観的な評価であろう。此度の合意は、安倍晋三(内閣総理大臣)の政権基盤には大した影響を与えることはないけれども、朴の政治基盤には少なからずの影響を及ぼすかもしれない。

 そうであるならば、此度の日韓合意を批判する日本国内右派層の反応に現れるのは、日韓合意を専ら「日韓関係」の文脈で評価する視野狭窄であろう。従軍慰安婦案件を含む従来の歴史認識摩擦の中で醸成された対韓不信の感情は、相当に広く浸透しているように推察される。故に、「韓国など信用ならないのに怪しからぬ…」という反応が出て来る。そうした議論は、国際政治が「四人でプレーする『三次元のチェス』」のようなものである事情を全然、理解できていないのであろう。日露戦争を專ら「日本とロシアだけの戦争」と認識した故に、その講和の中身に激昂した往時の日本の世論に似た風景が、そこにある。

 もっとも、日韓合意が成ったとはいえ、それが日韓関係の好転を促すかといえば、そうした期待は抱かないのが賢明であろう。日韓交渉を続けたとしても、日本政府の視線がソウルではなくワシントンに向いていたのであれば、そうした結論になる。実際、NHK世論調査の結果に拠れば、日韓合意それ自体には、64パーセントがポジティブ評価を与えているけれども、それが日韓合意の要としての「最終的、不可逆的解決」を担保できると考えている層は、僅かに8パーセントである。実に59パーセントは、「蒸し返される」と思っていることが浮かび上がるのである。日本における対韓感情の膠着が解かれるのは、随分と先のことになるのであろう。