別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より

金谷哲次郎(全国樺太連盟副会長)
聞き手 『別冊正論』編集部



あちこちで日本女性を集団強姦


 ──もう七十年前のことですね。

 金谷 昭和二十年八月、私は真岡中学二年、十四歳。樺太庁から強制疎開の通達が出て、真岡は十六日から。十四歳以上の男は残る。それ以外の婦女子は即ですね。おふくろと弟は船に乗り、父と私が残った。兄は東京の大学予科にいました。月末には婦女子は全員疎開できると思ったら、途中で滞ってしまった。そこで問題が起きたんですね、悲劇が。

 ──強姦されたんですか?

 金谷 そうです。わかるんですよ、露助が何人も囲んでるから。疎開できない私と親父は真岡から豊原まで逃げたんです。二週間くらいするとソ連軍から「元の場所へ帰れ」という命令が出たんで、また真岡に戻った。そこで目撃した。若妻が亭主の前で陵辱され、ことが済んでから二人で首を吊ったとも聞きました。「お母さん疎開できてよかったな」と親父、つくづく漏らしてましたよ。

 ──真岡ではどのように?

 金谷 もう家はない、焼けちゃって。頑丈な民家が残っていて数世帯と一緒に身を寄せた。十人ほどいたうち、女学生が一人、ご婦人が二、三人いた。しばらくは夜ごと露助が押しかけて「サケダワイ(出せ)」「ムスメダワイ」。僕ら中学生三人が覚えた片言のロシア語で防御しているうちに、地下壕とかあっちこっちに女はみんな隠した。

 ──すぐ帰りましたか。

 金谷 酔ってしつこく「出せ」と粘るから、ほかの皆が女を隠したのを見計らって中に入れると、その辺を探す。いないから腹立ちまぎれに自動小銃を撃ちまくる。天井や壁に。いやあ、恐かった。そして万年筆とか腕時計とか、日本製で質がいいですから、持ち去るんですよ。

 ──盗んでいくわけですね。

 金谷 彼らは「盗む」より「取り上げる」っていう感覚ね。ソ連軍の司令部は一応「日本人に危害を加えてはならない」という触れは出していたそうですけど、酒を飲むと二人以上で組んで来ましたね。

 ──そういうソ連兵は元々囚人が多いんでしょう。

 金谷 ええ、手の甲にね、四桁か五桁の数字が入ってる、刺青で。ふだんは陽気ですから、後で仲よくなって。「これ何?」って聞いたら、チョロマ(監獄)だって言うんです。凶暴なやつばかりじゃなくて、インテリ風のもいましたね。みんな傍若無人を働いた。勝ち戦で抵抗する人はいないんだから。

 ──そうですよね。

 金谷 あとでおふくろに聞いたら、北海道に疎開して樺太との音信が途絶え、いろんなデマが流れた。真岡はソ連軍の爆撃で全滅したなんて。「哲次郎を連れてくればよかった」と悔やんでいたそうです。

勤労動員の〝ケガの功名〟


 ──お父様のお仕事は。

 金谷 福島から移住した祖父が、大泊の大きな金物問屋から暖簾分けしてもらい真岡に店を構えた。ところが昭和初頭の世界大恐慌で潰れちゃった。小樽高商(現小樽商科大)を出た親父は小学校の教員をしばらくやって、敷香(しすか)町にできた商業学校の初代校長になった。私が五歳の時。急成長した町なんですよ敷香は。王子製紙の東洋一の人絹パルプ(レーヨン用パルプ)工場ができて。

 ──北の方ですよね。

 金谷 とても大きな町で碁盤の目のようになってるんです。何たって王子製紙はね、樺太で九つ工場持って、昭和十六年統計では当時の日本のパルプ需要の四分の一を樺太でまかなってたんです。

 ──お家はどのような?

 金谷 そう、横綱大鵬の実家ボリシコ牧場の近くに住んでた。大鵬は生れてなかったけど、お父さんのボリシコさんは穏やかな人で、牛が二十頭くらいいて、牛乳やチーズ、バターやパンを作ってたんで、よくお使いに行った。お母さんは納谷さんっていって働き者だった。上のお兄さんは私より三つか四つ年上で、よく相撲取って遊びましたよ。

 ──終戦時は真岡ですよね。

 金谷 祖父が亡くなって昭和十八年に真岡に戻りました。親父は商工会議所で戦時下の経済統制の担当になりました。配給切符の裏に親父の判がありました。僕らは二年生から勤労動員されて真岡中学へはほとんど行かず、最後は内幌(ないほろ)炭坑で石炭運びです。そしたら八月十三日の夕方、トロッコに手を挟まれちゃった。不注意で。先生に「ひょう疽(そ)になったら大変だから真岡へ帰って治療しろ」と言われて帰ったのが十四日。治療を受けて翌日炭坑へ戻ろうと思ったら重大な放送があるって。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」。親父が「もう内幌へ行かんでいい」と。これ、戻ってたら親父と離ればなれでしたね。

 ──紙一重でしたね。

 金谷 その後、町内にご婦人は疎開していないから、隣近所の男たちが集まって、当番で飯を準備した。不思議なことに、どこからともなく食糧が出てくるんですね。米、砂糖、醤油、で、牛肉まで。十八、十九の晩は続けてすき焼きです。大人は久しぶりに酒も飲んだ。そして二十日の朝六時頃、朝食の支度をしようと思ったら、ドーンと来たんです。大砲の艦砲射撃。