別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より


長勢了治(抑留問題研究者・翻訳家) 

独裁者スターリンの非道


 敗戦から七十年となった平成二十七年、ロシアは五年前に「第二次世界大戦終結記念日」と定めた事実上の対日戦勝記念日である九月二日に樺太と北方領土で記念式典や軍事パレードを行い、プーチン大統領は中国の習近平国家主席が主催する「抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利七十周年」記念式典に向かう途次、東シベリアのチタ市で「戦争犠牲者」の記念碑に献花した。

 樺太と千島列島および北方領土を不法に占領した事実を覆い隠し、力による領土拡大を「大戦の結果」として合理化するとともに実効支配を誇示する狙いであろう。ロシアも中国同様、日本に歴史戦を挑んでいる。

 ソ連軍は終戦直前の昭和二十年八月九日午前零時、日ソ中立条約を破棄して満洲に侵攻した。北朝鮮にも同日、北部沿岸に爆撃を始めた。樺太には八月十一日から北部国境方面にソ連軍が侵入した。千島列島への侵攻は遅く、終戦後の八月十八日に占守島(しゆむしゆとう)へソ連軍が上陸し、日本軍との間で大規模な戦闘となった。

 日本が降伏した八月十五日以降もソ連が攻撃の手を緩めなかったのは満洲、北朝鮮、樺太、千島列島を完全に制圧することを狙っていたからだ。歯舞諸島の占領をもって北方領土の占領を完了したのは九月五日だったから、九月二日を対日戦勝記念日とするのも欺瞞であろう。

 スターリンはルーズベルト、チャーチルとの昭和二十年二月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後二、三カ月で対日戦に参戦し、見返りに樺太、千島列島、東清鉄道、大連、旅順を貢ぐよう約束させた。スターリンはこの密約どおり実行したわけである。

 ヤルタ会談ではドイツに関して「国民資産の撤去」「ドイツの労働力の使用」を賠償として明記したことは周知である。スターリンが日本についても同様に考えたであろうことは容易に想像できる。ただし、日本は一方的に侵攻された側なので「賠償」を取られるいわれはない。
東シベリア・チタでの戦勝70年行事で記念碑に献花するロシアのウラジミール・プーチン大統領=2015年9月2日(タス=共同)
東シベリア・チタでの戦勝70年行事で記念碑に献花するロシアのウラジミール・プーチン大統領=2015年9月2日(タス=共同)
 スターリンはすでにドイツ人を始め枢軸国側の捕虜を三百万人以上、国内に連行して使役し味をしめていたから、満洲侵攻後の八月二十三日、有名な「秘密指令九八九八号」を出して五十万人の日本人をシベリアへ連行するよう命じた。同時に満洲、北朝鮮の施設と物資を「戦利品」として大量に掠奪し国内へ移送した。

 八月末から翌春にかけて六十万人以上の日本の軍民がソ連とモンゴルに移送され、長期間抑留された。いわゆる「シベリア抑留」である。連行先は、北は極北のノリリスクから南はトルクメニスタンまで、東はカムチャツカから西はウクライナまでほぼソ連の全土に及び、一部はモンゴルにも移送されたから地域的には「ソ連モンゴル抑留」がふさわしい。

 ソ連占領地ではソ連軍による居留民に対する残虐行為が多発した。掠奪、暴行、強姦により居留民は塗炭の苦しみを味わった。とりわけ悲惨だったのは開拓民で、根こそぎ動員で男手のない老人と婦女子の集団がソ連軍や現地民に襲われ、陰惨極まりない逃避行を余儀なくされたのだ。

 ソ連とモンゴルに連行、抑留された軍民にも悲惨きわまりない運命が待ち受けていた。日本兵はソ連軍が指定した四十四カ所の集結地収容所に集められ、順次列車や徒歩でソ連領へ移送された。満洲は九月ともなれば寒くなる。行軍中に斃(たお)れる者が出るし、列車から脱走する者も出たがソ連軍は容赦なく射殺した。

 こうしてソ連への移送途中で、早くも数万人ともいわれる日本人が死亡したが実態は不明である。

 ソ連兵は移送の時いつも「トウキョウ・ダモイ(帰国)」と嘘をついて日本人の逃走や反抗を防ごうとした。お人好しの日本人は「トウキョウ・ダモイ」を信じようとし、手もなくだまされた。ダモイの嘘はソ連に対する根深い不信感を日本人に残した。

 こうして日本人は約二千カ所ともいわれる収容所に入れられた。シベリアや沿海州を中心として中央アジアやウクライナ、そしてモンゴルへ配置されたのである。収容所で日本人を待ち受けていたのが「シベリア三重苦」といわれる飢餓、重労働、酷寒(マロース)だった。