平川祐弘(比較文化史家、東京大学名誉教授) 


使わずにすんだ青酸カリ

「そうだ、あんなものは片付けんといかんな」

 と父が言ったのは昭和20年9月、台風一過の晴れた日であった。「あんなもの」とは青酸カリで、親子は照れたように、その用途にふれなかったが、本土決戦になれば自決せねばならぬ事態もあろうかと思って、父はそんな小壜を床のコンクリートの下に隠しておいたのである。昭和天皇の終戦の詔勅の放送によって平和を回復した内地の平川家では、「あんなもの」に手をつけずにすんだ。

 8月15日、日本は降伏した。だがソ連軍は戦争をやめない。ソ連の戦車は今はサハリンと呼ばれる樺太で国境線を突破、南下して日本の将兵のみか婦女子も多数殺(さつ)戮(りく)した。死亡者は、引揚船が撃沈されたこともあり、四千数百人にのぼる。ソ連が樺太全域の占領を目指したからで、終戦5日後の8月20日、南の真(ま)岡(おか)にソ連海軍は艦砲射撃を加え上陸した。そのソ連軍のもとへ停戦交渉に赴いた日本側軍使一行は白旗を掲げていたが、射殺された。次の軍使も射殺された。街には火災が発生する。

 真岡の名は日本の辞書にはもうないが、世界地図にはホルムスクと出ている。戦争中は人口2万、全人口が40万の南樺太では大都会だった。その真岡郵便局に踏みとどまって最後まで勤務した9人の電話交換手の少女たちは、ソ連軍が迫るや、「皆さん、これが最後です、さようなら」の通信を豊原に送って青酸カリで自決した。当時の私とさして年も違わぬ少女たちである。

殉職した9人の乙女

 宗谷海峡を見おろす北海道稚内の丘の「氷雪の門」のそばに、受話器を耳にした「殉職九人の乙女の碑」が建っている。ソ連が昭和20年8月9日、日本に対して「解放戦争」をしかけた挙げ句の悲劇であった。

 そのロシアは本年、事実上の対日戦勝記念日を制定し、そのサハリンで軍事パレードを行い、「勝利を祝うことは戦争の結果の見直しを許さないという警告である」と述べ、北方領土返還拒否の意思表明をした。そして中国とともに共同声明を発表し解放戦争史観を肯定した。

 張作霖の爆殺など政府を無視して独走した日本の軍部に大陸の戦争についての重大な責任はある。しかし肝心の点は、だからといってソ連の対日戦を解放戦争と呼んでいいのか、という疑問である。わが国にも敗戦後、ソ連中国の解放戦争史観を尊重する人がいた。今もいる。

 そうした人たちが裏で手をまわしたのだろうか、『氷雪の門』と題された樺太真岡で自決した9人の電話交換手を描いた映画は、昭和49年に製作されたにもかかわらず、「反ソ映画である」として上映を差し止め、「幻の名画」になってしまった。なぜ『氷雪の門』は封印されたのか。ソ連大使館と呼応して映画の上映さえストップできるほど外圧に弱い日本ならば、北方四島も南方の諸島も、力ずくで奪取できると専制国家の軍部や外交部が思いこむのはけだし当然だろう。映画やビデオはきちんと公開せねばならない。
ソ連の南樺太(サハリン)侵攻を描いた映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の一場面。「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」。最後の1本の電話プラグを引き抜き、電話交換手の女性9人は命を絶った (クレジット:ⓒ「氷雪の門」上映委員会)
ソ連の南樺太(サハリン)侵攻を描いた映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の一場面。「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」。最後の1本の電話プラグを引き抜き、電話交換手の女性9人は命を絶った (ⓒ「氷雪の門」上映委員会)

ソ連軍でなくて良かった

 敗戦後、私の代々木の家は占領軍に接収された。誰も同情しない。級友の3分の2は空襲で家を焼かれた。米国将校に目をつけられるような邸に住んでいたこと自体が贅沢と思われたからである。父は秋田に嫁いだ姉を呼び戻し妊婦がいるからと接収の先延ばしに成功した。しかし、甥が生まれ姉が秋田に帰ると家は接収された。それでも父は「アメリカに占領されてよかったな。ソ連に占領されたら即刻立ち退きだ」といったが、私も同感した。

 東ドイツでは共産党指導者は「ドイツをヒトラーから解放したのはソ連軍のおかげだ」と解放戦争史観を宣伝したが、西ドイツの人は「アメリカに占領されてよかった」と思っている。敗戦直後のソ連軍の略奪やレイプがあまりにすさまじかったからである。「悪人の友をふり捨てて、善人の敵を招け」とは謡曲の詞だが、私は日本が自由主義陣営にとどまったことを良かったと思っている。

 戦前戦後の歴史を通観して考える。わが国を暴走させた軍部の責任はまことに重大だ。だが、ヒトラー、スターリン、毛沢東などの独裁専制がなかっただけ、日本はまだしもよかった。私たちの国には強制収容所も粛清も吊し上げもなかった。その史実を率直に認めたい。

 私は解放戦争史観に媚びる人が嫌いだ。真岡の電話交換手は義務感から職場に最後まで踏みとどまった。彼女らは工務の技術官に頼んで薬をもらった由だが、私の父が工面して入手したのと同じだ。万一に備えたのである。

 碑文には「日本軍の命ずるままに青酸カリを飲んだ」とあるが、戦後日本にはこんなさかしらを書く人が多い。本当に軍に強制されたのか。こんな書き方は死者への冒瀆ではないか。人は国を守り、操を守るためには死を覚悟することもある。 
(ひらかわ すけひろ)