廣瀬陽子 (慶應義塾大学総合政策学部准教授)


 2011年8月15日、日本は66回目の終戦記念日を迎えた。第二次世界大戦の体験者も年々減ってきている。日本の歴史において、第二次世界大戦が持つ意味は極めて重く、甚大な人命の喪失と敗戦国として背負った代償の大きさは筆舌に尽くし難い。

 他方、当時のソ連、そしてロシアを中心とするその継承国にとっても、第二次世界大戦(旧ソ連諸国では、「大祖国戦争」と呼ばれる。以後そのように記載する)の意味は非常に大きく、人命の喪失も甚だしかったとはいえ、戦勝国として大きな自信を得て、そこからいわゆる西側陣営との冷戦に突き進んでいった点で、その持つ「意味」は日本と大きく異なると言える。

旧ソ連諸国にとっての大祖国戦争の意味と「勝利記念日」


 ソ連にとっての大祖国戦争は、「独ソ戦」が主たるものだと言える。人類の敵であるナチス・ドイツによる「独ソ不可侵条約」を犯しての奇襲による熾烈な戦いに勝利したことは、生まれたばかりのソ連にとっては極めて大きな誇りとなった。しかも、ロシア人の60%が、ロシアは同盟国の支援がなくても単独でドイツに勝利できたと考えているという(ユーリー・レヴァダ分析センターが実施した世論調査による)。

 そのため、各地に大祖国戦争を記念する記念碑やモニュメントが建設され(ただし、最近、エストニアやグルジアなど反ロシア的な諸国が、大祖国戦争のモニュメントを移動したり、破壊したりしており、それに対し、ロシアは激しく反発している)、現在でも毎年、ドイツに勝利した5月9日の「戦勝記念日」にはロシアはじめ、旧ソ連の数か国で独ソ戦勝利記念軍事パレードが華々しく行われる。また、ドイツが攻撃を仕掛けてきた1941年6月22日を記念し、ロシアはこの日を「記憶と悲しみの日」に制定している。このように、大祖国戦争は、ソ連が解体しても、ソ連諸国をつなぐ共通の誇らしい歴史の記憶であったと言える。

 実際、バルト三国(反ロシア的なスタンスで知られる旧ソ連諸国。現在はEU加盟国である)も、ソ連の独ソ戦での活躍については高い評価をしているようだ。すなわち、ナチス・ドイツから欧州を解放したのはソ連であるという見方である。ただ、その直後のソ連の行動により、評価は短期間に一転するのであるが…。

 このように、旧ソ連諸国では、大祖国戦争はドイツに対する勝利というイメージが強く持たれているが、ソ連時代には、もう一つの「戦勝記念日」があった。それは、9月3日の「対日本軍国主義戦勝記念日」(以後、「対日戦勝記念日」)である。一般的に「対日戦勝記念日」は、日本がソ連を含む戦勝国に対して降伏文書に調印した1945年9月2日にちなんで設定されることが多いが、ソ連や中国などは9月3日を対日戦勝記念日としていた。ソ連の場合は、降伏文書調印の翌日9月3日に戦勝記念式典を開いたことにその起源がある。

 だが、「対日戦勝記念日」を祝う慣習はソ連解体後にはなくなっていた。このことは、旧ソ連諸国にとっては「対日戦」の意味はあまり重くなかったことの証左と言えるだろう。

ロシアにとっての対日戦の意味の変化?


 しかし、2010年には「対日戦勝記念日」を復活させる議案がロシア連邦議会に提出された。ただし、事実上は「対日戦勝記念日」であるが、「第2次世界大戦が終結した日」としてその議論は進められた。そして10年7月14日に、9月2日を「第2次世界大戦が終結した日」とする法案を連邦議会が可決し、同月25日にメドヴェージェフ大統領が署名して、同法改正案は成立した。

 実は、「対日戦勝記念日」の復活の動きは10年以上前からあり、ロシア連邦議会でもそのような動きが出たことがあったが、これまでは政府がそれを抑制してきた。しかし、昨年は、大統領府の会議で高い支持が得られたということで、大統領府が支援者となり、これまでとは異なる様相が見られるようになったのである。
モスクワでの軍事パレード後、軍人らと握手するロシアのプーチン大統領(AP=共同)
モスクワでの軍事パレード後、軍人らと握手するロシアのプーチン大統領(AP=共同)
 そして、昨年9月には、中露が第二次世界大戦での「対日戦勝65周年に関する共同声明」を出すに至る。メドヴェージェフ大統領は、9月26日から3日間の訪中を行い、1904~05年の激戦地だった大連・旅順口を訪問し、日ロ戦争および第二次世界大戦におけるソ連軍・ロシア人の犠牲者追悼行事に参加、北京で首脳会談を行なって共同声明を発表した。その共同声明は、ロシア(当時はソ連)と中国は軍国主義の日本およびファシズム政権のドイツに対して共闘した同盟国であり、対日戦勝の65周年をともに祝すという趣旨となるが、とくに、中露両国が第二次世界大戦の結果を同様に受け止め、その見直しはあり得ないことを盛り込み、両国が言うところの歴史の真実を共に守っていくことが重視されている。*注1 そのため、11月にはロシアのメドヴェージェフ大統領がソ連・ロシアの最高指導者としては初の北方領土訪問を行うに至り、以後、多くのロシアの重鎮たちが北方領土を訪問するようになった。

 さらに、ラブロフ外相は今年の2月15日に、「日本が世界大戦の結果を正確に認めない限り、平和条約交渉は無意味だ」と対日牽制を行っている。ロシアは、北方領土がロシア領になったのは、第二次世界大戦の結果、つまり日本の敗戦によるものだという主張を従来からしており、改めて、日本に対して北方領土の返還主張をやめるよう示唆してきたと言える。

 このような経緯から、去年よりロシアの対日姿勢が急に硬化したことが感じられるのである。

 ただし、9月2日が「対日」という言葉を含まずに「第2次世界大戦が終結した日」と命名されたことには、日本への一定の配慮が感じられる。それは、2011年3月11日に、9月3日を「日本帝国主義者に対する勝利の日」と定める法案が提出された際に、圧倒的与党である「統一ロシア」が反対し、否決されていることからも明らかである

ソ連は本当に戦勝者か?


 しかし、ここでソ連は本当に戦勝者であったのかという疑問が生じる。「対日戦」はソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、*注2 つまり国際条約に違反した形で、長い戦争で疲弊したところに原爆というとどめを刺されて死に体となった日本に対して、8月8日に宣戦布告。広島に続き、長崎に2発目の原発攻撃を受けた8月9日から、大規模な攻撃を開始し、千島列島・南樺太・北朝鮮全域・満州国を次々と制圧・占領。幸いに実現はしなかったが、日本敗戦の折には北海道の占領権まで主張するに至ったという、いわば火事場泥棒的な戦争であった。そして、そのことは、ロシア人も認めるところであり、実際「第2次世界大戦が終結した日」への支援の声はそれほど大きくないようだ。以下に、同記念日の制定に対するロシア世論の一部を紹介しよう。

・日ソ戦争は、日本ではなくソ連の方から正当な理由なく攻撃を仕掛けた戦争である。
・日本の敗戦によってソ連は南サハリンとクリル(千島)列島を取り戻した。しかし、その領土のすべては、必ずしも日露戦争(1904~05年)で失ったものではない。
・日ソ戦争で戦死したソ連兵は約8200人。ドイツとの戦争における戦死者の数は数百万人単位であり、それと比べると桁違いに少ない。
・対日戦争はよく計画され、実行されたものであった。しかし、国民の感情に火をつけるほどの「悲劇と栄光の出来事」とは言えない。そのため、国民の中にこれを記念しようという声は沸き起こっていない。
(以上、コンスタン・サルキソフ「「対日戦勝記念日」制定にロシア国民の反応は?」、JP Press 2010年4月8日)(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3179)より引用

*注1:拙稿「尖閣諸島問題は北方領土問題に影響するか?」ASAHI WEB RONZAシノドスジャーナル(http://webronza.asahi.com/synodos/2010092800001.html)を参照されたい
*注2:ソ連にとっては、ナチス・ドイツとその同盟国である日本からの東西両面からの攻撃を避けるため、日本にとっては北方の安全保障を確保するという相互の思惑のもと、1941年4月13日にソ連の首都・モスクワで調印されたもの。日ソ両国の相互不可侵及び、一方が第三国と軍事行動の対象となった場合の他方の中立等が取り決められていた。しかし、41年6月22日に、ナチス・ドイツがソ連に対して「独ソ不可侵条約」を破棄して奇襲攻撃(バルバロッサ作戦)をかけ、独ソ戦が開始されたとき、日本も対ソ連攻撃の準備をしたが、踏みとどまった経緯がある。だが、45年2月4日に、米・英・ソの首脳がヤルタ会談を行い、対独戦後処理とソ連の対日参戦についての密約である「ヤルタ秘密協定」を締結した。そして、それに従って、ソ連は対日参戦をするに至るが、ここで、ソ連は「日ソ中立条約」への違反を犯すことになる。実は「日ソ中立条約」の有効期限は5年間であり、その破棄には満期1年前の不延長通告を必要とするとの取り決めがあったが、その満期日は46年4月だった。だが、日本の敗戦の可能性が高まってきたのを受け、ソ連は45年4月5日に条約の不延長、すなわち条約が満期を迎える46年4月での破棄を通告してきたのである。確かに、条約を延長しない旨の通告はあったが、条約失効まで約8ヶ月を残す段階で、ソ連は対日宣戦布告をしたわけであり、それは間違いなく条約違反であった。

ロシア側の「正当化」の論理


 この背景には、ロシア首脳陣や一部のロシア人の、対日戦におけるソ連のスタンスの「正当化」の論理があるといえるだろう。

 たとえば、ロシアのイタル・タス通信のゴロブニン東京支局長は、日本とロシアの第二次世界大戦の終わりごろについての解釈は大きく異なるという。彼は、「ロシアでは社会の多数の人々は、日本が当時、帝国でナチス・ドイツとの同盟国であり、旧ソ連を脅かしていたと考えている。だから、1945年8、9月の(旧ソ連の)作戦に対しても、この大枠で捉えている。つまり、日本が領土を失ったのは、正当な罰だという考え方だ。」(『産経新聞』2011年5月4日)と述べるが、この見解が日本の見方と大きく異なることは明白である。

 また、同氏の主張が、上述のサルキソフ氏が述べるロシア人の世論と大きく異なっていることも興味深い。この違いの理由は何だろうか? イタル・タス通信は、ロシアの国営通信社であるので、もしかしたら、イタル・タス通信側が、政府の意をくんで、世論を創出しようとしているのかもしれない、というのは考え過ぎだろうか?

シベリア抑留問題


 他方で、第二次世界大戦の結果の如何にかかわらず、日本がロシアに対して強く主張し続けるべき問題がある。シベリア抑留問題である。

 シベリア抑留とは、第二次世界大戦直後に、ソ連が多くの日本人を、日本に復員させることなくシベリアや中央アジアなどソ連各地に抑留して、非人道的な強制労働を行わせたものである。日本人抑留者のほとんどは、旧日本軍の軍人(主に関東軍だが、北朝鮮・樺太・千島などソ連が侵攻した地に展開していた陸海軍部隊も含まれる)だったが、民間人も含まれていたという。日本政府の推計によれば、抑留者数約56万人(約60万人以上という説もある)のうち、全ての抑留者の帰還が終わる1956年までに約5万3千人(約6万9千人という説もある)が死亡したという(日本政府が推計する抑留者や抑留死者数は、帰還者や家族の聞き取りを基にしたもので、少なすぎるという見解が多く出されている。なお、これまでロシアから返還された遺骨は2万柱である)。これは、氷点下70度になる場所もあったような極寒の地で満足な食事も与えられず、森林伐採や鉄道建設などの重労働で酷使されたためである。本稿では、その内容の詳細について述べる紙幅の余裕がないが、シベリア抑留については多くの著書があるので、それを参考にしていただきたい。

 なお、日本人の旧ソ連での労働の質は極めて高かったとされている。たとえばウズベキスタン・タシュケントのナヴォイ劇場は日本人抑留者が建設したものであるが、大地震の際に、ナヴォイ劇場だけが無傷で残ったとして、日本人の仕事の質の高さが今でも言い伝えられている。*注3
ナヴォイ劇場と記念碑(筆者撮影)
ナヴォイ劇場と記念碑(筆者撮影)
 このようなソ連の抑留や、捕虜の速やかな送還を明記した「ハーグ陸戦規則」にも、武装を解除した日本軍兵士の帰宅を定めた「ポツダム宣言」にも反するものだが、ソ連は長らく本問題に口を閉ざしてきた。だが、ソ連の最後の大統領だったゴルバチョフが初めて「哀悼」の意を表明し、ロシアの初代大統領エリツィンが初めて93年10月に正式に「ソ連全体主義の犯罪」だとして、正式に「謝罪」した(東京宣言)。だが、その後のプーチン、メドヴェージェフは言及を避けている。

*注3:拙著『強権と不安の超大国・ロシア』光文社新書、2008年 を参照されたい。

 そのような中で、戦後70年を迎える2015年を前に、シベリア抑留問題への対応が急務となっている。具体的には、抑留者や死亡者の身元確認を中心とした抑留の全体像の究明と抑留者への賃金未払い問題と補償問題である。

 2009年7月にモスクワのロシア国立軍司公文書館でシベリア抑留に関する新資料が最大で76万人分が発見された。このカードには、抑留者の名前、生年、収容所異動歴などが記載されていた。全抑留者を網羅する規模の資料発見は初めてで、抑留者や死者の総数確定などに寄与すると期待された。上述の数字より抑留者の数が多い理由は、抑留者の多くが収容所を転々とさせられていたため、移動の際に複数の記録が生まれたことにあると見られている。そして、政府も8月5日には、「シベリア特措法」に基づく、基本方針を閣議決定し、対応が強化されている。

 だが、今年の8月現在で、このロシア側の資料と日本側の資料の照合により、身元が確認されたのは2097人に過ぎず、身元は判明したが、埋葬地などが不明な抑留者の数も多いという。厚労省は、作業の迅速化のため、「照合ソフト」も開発し、なるべく早く埋葬地まで明らかにし、遺骨の収集まで進めていきたい意向を示している。やはり重要なのは当時の情報となるが、抑留者の中に生存者が少なくなっていることや、埋葬地の上に建設が行われていたりと、作業は思うように進まないという。今後、厚労省は、資料を誰でも閲覧できるように、死亡者名簿を国立公文書館に移すなど、情報収集に力を入れていくとのことだ。

 また、近年、抑留者の「未払い賃金」問題の解決が急務となってきている。当時のソ連政府は抑留者に対して労働証明書を発行しなかったため、日本政府も彼らに賃金を支払わないままで現在に至っているのだ。本問題も、上述の抑留者の身元確認が前提となる。ロシアに補償金を支払わせろという声も一部で高まっている。

続く戦後


 このように、日本とロシア・旧ソ連諸国では、第二次世界大戦の受け止め方は全く異なる。それは単に結果としての「敗戦国」、「戦勝国」の違いだけではなく、日本が喪失したもの、つまり抑留者や領土に対する考え方にも大きく反映している。それらに対して、「戦勝国」であるロシアは、自分たちの振る舞いがまるで当たり前であるかのような態度を示す一方、日本人にとっては「戦後」がまだ続いていると言って良い。今後のロシアとの関係には、常にこの「第二次世界大戦」の理解の齟齬が絡み合ってくるが、当時のソ連が条約や国際法への違反行為を行ったのも事実だ。日本は、ロシアと歴史認識の違いの溝を埋めながら、真の「戦後」を終わらせるべく、辛抱強い調査や交渉を続けていくことが求められるだろう。