髙山正之(ジャーナリスト)



 自慢にもならないがナマのマッカーサーを間近で見たことがある。

 トルーマンに首にされて帰国した昭和二十六年四月十六日、こちらが麻布小学校の三年生だったころの話だ。以下記憶のまま書く。

 月曜の朝、登校すると先生に下履きのまま校庭に集まれと言われた。

 校長がいつものように朝礼台に立って話し始めた。いつもと違う改まった口調だった。

 「マッカーサーさんが都合あってお国、アメリカに帰ることになりました。お世話になった人です。これからみなさんでアメリカ大使館に行き、元帥をお見送りします」

 そのころGHQのレッドパージが結構賑やかにやられていた。いい気になっていた共産党員がどんどん捕まり、職場から追われた。赤い教員も教壇を去った。

 そういうとき朝礼で校長が「なんとか先生は都合があってお国に帰ります」というのが形だった。

 だから校長の話を聞いて児童たちは「マッカーサーもアカだったんだ」と驚いた。ませた子が「真っ赤ーサーっていうぐらいだもの」と言ってみんなを笑わせた。
マッカーサー元帥解任発表翌日の総司令部前(1951年4月12日)
マッカーサー元帥解任発表翌日の総司令部前(1951年4月12日) 

 アメリカ大使館は学校から子供の足で十五分くらいか。高松小とかほかの学校の児童も来ていて、こちらは大倉集古館、今のホテルオークラの側に並んだ。マッカーサーの住む大使公邸の前、黒い鍛鉄製の門をやや右手に見る位置だった。

 いきなりその門から黒塗りのでかいアメ車が飛び出してきてあっという間に走り去った。フェンダーに五つ星が並んだ細長い元帥旗がぴんと張っていたのと、後部座席に大きな男の影があったのを覚えている。

 「ナマのマッカーサーを一瞬、見た」に近いが子供たちは結構、腹を立てていた。わざわざ見送りに来て旗も振ってやったのに挨拶するでなし、手を振るでなし。その怒りは間もなくもっと膨らんだ。

 学校に戻って一時間の授業が終わると教頭が「屋上に上がれ。さっき振った旗をもってこい」という。一年生から六年生まで屋上に並ぶと「今から空に向かって旗を振れ」で、かなり長い間振らされた。

 これは一体なんなのか。子供たちは意味不明の振りつけを問うた。教頭はマッカーサーがこの時間、東京上空を一周するからどの学校の生徒も校庭や屋上で見送るように指示されていると言った。

 彼の乗機はバターン号と言った。ロッキード社製の垂直尾翼が三枚あるスーパーコンステレーションというタイプだ。

 羽田にはこの独裁者の専用機格納庫が整備場地区に長らく残っていて、進駐軍が帰ったあとは確か「日ペリ」こと全日空が使っていたはずだ。

 そのバターン号が羽田を飛び立って東京の上空を一周している。はっきり言ってそんな機影は見たかどうか覚えがない。

 多分、機内のマッカーサーも「おお麻布小学校も南山小学校も旗を振っている」なんて見ているわけもない。有色人種が懸命にご主人様のために舞う。それを尊大に無視するのが白人の偉大さだと思っている。子供心にも忘れがたい屈辱だった。

 だいたい彼の回顧録『Reminiscenc-es』にも学校の児童生徒を校庭なり屋上に立たせて旗を振らせたとかの言及はない。

 それどころか彼は「私を慕う日本人が二百万人、大使館から厚木までの沿道を埋めた。泣いている者もいた」と書く。

 お前が向かったのは羽田だ。それに日本側の資料では二十万人だ。それも大半がいやいや動員された児童生徒だった。一ケタ増やしたうえに飛行場の名も場所も違う。泣いたのもその理不尽への抗議の涙のはずだ。