米通信社の写真


 こういう善意の人までまだ騙し続けるマッカーサー神話が許せないが、彼が狡猾でケチな男だというはっきり目に見える証拠はなかなか見つからないものだ。

 偉大なマッカーサーが歴史に定着するのかと思っていたところに新聞記者時代、警察庁の記者クラブで世話になった共同通信の井内康文氏から『写真で綴る戦後日本史』が送られてきた。「中におもしろい写真があったので」と。
公益財団法人・新聞通信調査会発行『写真でつづる戦後日本史』(2014年1月24日発行)に掲載されたマッカーサーの写真(ACME)には、ズボンの股間にはっきりとした染みが写っている
公益財団法人・新聞通信調査会発行『写真でつづる戦後日本史』(2014年1月24日発行)に掲載されたマッカーサーの写真(ACME)には、ズボンの股間にはっきりとした染みが写っている

 それが一九四五年八月三十日、二代目バターン号C54輸送機で厚木に降り立ったマッカーサーの写真だった。例のコーンパイプを咥え、レイバンのサングラスをかけて自信満々にタラップを降りてくる図柄だ。

 彼がここに来るわずか四週間前まで米艦船に向けてそれこそ死にもの狂いの特攻機が突っ込んでいた。

 二週間前にも降伏を潔しとしない青年将校が決起して、皇居に殴り込み、上官を射殺もしている。そうした恐れを知らない精鋭の将兵が関東一円だけで二十二個師団三十万人もいた。

 そのただ中をマッカーサーは丸腰で、コーンパイプを片手に悠然と降り立った。強い米国、「I shall return(必ず帰ってくる)」の言葉を守り、今メルボルンからここに来た。自信と誇りに満ち溢れた威厳ある姿。そういう図。

「でもよく見てほしい」と井内氏の手紙は続く。「タラップを降りた彼の股間部を」。

 見てちょっと固まった。マッカーサーのズボンの前立ての左側部分にはっきり濡れ滲みが見える。光の加減ではない。

 彼の厚木到着の写真は各国記者団に交じって同盟通信の武田明と宮谷長吉が撮っている。武田は「マッカーサーは顔に化粧を施していた」というコメントを残している。ファンデーションにドーランを塗っていたと。

 宮谷はタラップから日本の大地に一歩を下した瞬間を狙ったという。恐らくこの写真のことだろうが、ただ、股間の濡れ染みについては語っていない。武士の情けなのだろう。

 ほぼ同じアングルで米通信社ACMEの写真がある。別に「米海兵隊撮影」もある。光文社の『米軍カメラマンの秘蔵写真・東京占領1945』も念のため見た。

 その表紙の写真は彼を出迎えたアイケルバーガーと語りながら、という図柄だが、それもマッカーサーのズボンの左側部分が変色しているのをはっきり示していた。

 彼は強がっていた。誰よりも先にタラップに出た。しかし、心の底ではいつ襲われるか、いつスナイパーの一発が彼の額を撃ちぬくか、不安に打ち震えていたのだろう。

 一歩、二歩、降りるごとにその恐怖がいや増していった。いくら強がったって体も交感神経もついていけなかったのか。

 これが失禁のシミだと見るべきだと、彼の過去のいくつかのエピソードが語っている。以下、その状況証拠を挙げてみる。

 彼が日本軍とまみえることになったフィリピンは、実は彼の父アーサーの代から馴染んできたところだ。

 アーサーは米国がここを植民地にした一八九八年当時の陸軍司令官で、独立を目指すアギナルド将軍以下の現地人抵抗者やその家族四十万人を虐殺している。後に息子ダグラスが上陸するレイテ島もそのときに一歳の幼児まで全島民が殺されている。

 マッカーサーは父の後を追って駐屯米軍の指揮官として赴任し、民からは「虐殺者の息子」として恐れられた。彼の現地広報官カルロス・ロムロも、自分の見ている前で父を水責めの拷問で殺されている。

 彼は三度、ここにきて四度目のマニラ赴任が米陸軍退官後の一九三七年(昭和十二年)だった。米傀儡政権ケソンの軍事顧問がその肩書きだった。表向きは独立を前にしたフィリピンの国軍づくりだが、実際は近く始まる対日戦争用の戦力に仕立てることだった。英軍には弾よけにインド兵がいる。白人米兵にはフィリピン兵というわけだ。

 で、その日米戦はいつか。「早ければ四二年春とルーズベルトは読んでいた」(M・シャラー『マッカーサーの時代』)。

 日本にどこで戦端を開かせるか。本来は、そして今現在もカリフォルニア州サンディエゴにある米太平洋艦隊基地を、大統領はそれでこの時期に日本軍の手の届く真珠湾に移している。少なくとも四〇年(昭和十五年)春の艦隊訓練が終わったあと、空母を除く主力戦艦を真珠湾に密集して置きっ放しにした。

 明らかに日本に襲わせるための囮だった。海軍側がそれを指摘したが、大統領は取り合わなかった。そして一年半後に日本軍はここを襲った。

 この米太平洋艦隊の真珠湾足止めと同じ時期に米国は日本への鉄の禁輸を決めた。経済封鎖で苛立たせ、戦争に誘う最終段階がこのときに始まった。