日本の攻撃に呆然自失


 一方で、ルーズベルトはフィリピンの軍備に力を入れた。追い詰められた日本が資源豊かな南方に出る。その入り口にあるのがフィリピンだ。だから必ず日本軍はここに来る。現地兵の養成を急ぐ一方で、大統領は米地上部隊と空軍の増強を急いだ。

 後にバターン死の行進の被害者と吹聴するレスター・テニーもこのころ戦車隊の一兵員としてマニラに送られてきた。

 空軍増強の中心は四発重爆撃機B17。これを四一年秋までに三十五機、送り込んだ。

 「空飛ぶ要塞」の異名をとるB17は本当に無敵だった。戦闘機に劣らない機速と厚い防護と十丁の十二ミリ機銃は逆に戦闘機を撃ち落とし、過去に一機も撃墜されたことがなかった。

 B17の一機は高速巡洋艦一隻なみの破壊力を持つと評価され、スチムソンは「B17は日米の力のバランスを変えた」と言い、ルーズベルトも日本が対米戦争突入を諦めはしないか、本気で心配したほどだった。

 英国も米国に倣う。四〇年に入ると、九龍国境を要塞化し、マレーにもジットラ・ラインを築いた。そして想定開戦に間に合わせるように戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスをシンガポールに送ってきた。

 この二艦が入港してすぐ日本軍は真珠湾と香港を襲い、マレー半島に大部隊が上陸した。そしてフィリピンも当然標的になった。

 マッカーサーは午前三時過ぎ、側近からの電話で真珠湾攻撃を知った。彼は宿舎のマニラホテルから米極東軍司令部に出向いたが、その時点から丸半日、沈黙する。

 午前五時、航空部司令官ルイス・ブレアトン准将が先手を打って台湾の基地奇襲を提案したが、返事なし。准将は夜明け後、再度申し出るが、許可が出たのは昼前だった。空中退避していたB17以下がクラーク基地に降りて出撃準備中に日本軍機が襲来した。

 被害は同基地にあった二十一機のB17のうちブレアトンが偵察に出した三機を除く十八機すべてとP40戦闘機五十三機など計百四機が破壊された。施設は焼かれ、整備員の多くが死傷し、フィリピン空軍は事実上壊滅した。

 真珠湾から半日たった午後三時五十分、マッカーサーの執務室をセイヤー高等弁務官が訪ねたが、「彼は部屋の中を行ったり来たり」(増田弘『マッカーサー』)ただ狼狽えるだけだった。半日間、彼は何を下命すべきか何も分からずに過ごしたのだ。

 しかし回顧録では「真珠湾攻撃があったと聞いたが、もちろん米側が反攻して勝ったと思い込んでいた」と言い訳し、クラーク基地の全滅も「敵軍は七百五十一機の大勢力で攻撃してきた。貧弱な装備のわが軍の二倍以上の兵力だった」から負けたと書いている。実際の日本軍機は百九十一機。対するフィリピン空軍機はB17を含め二百四十機にも上る。この男は平気で噓をつく。
リンガエン湾に上陸する本間雅晴中将
リンガエン湾に上陸する本間雅晴中将
 おまけに彼の不始末をよく知るブレアトン准将はマッカーサーからジャワに行くように命ぜられ、以後、英空軍に配属され、セイロン、ニューデリー、カイロと回される。

 マッカーサーはその後、バターン半島の先、コレヒドール島に逃げ込む。フィリピンが攻められたときの手筈「レインボー5」によればフィリピン軍十個師団と在比米軍三万、B17以下の空軍力で上陸日本軍を水際で抑える。破られればバターンに退き、六カ月間こもる間に太平洋艦隊が救援にくる予定だった。

 しかしマッカーサーはただおろおろし、虎の子のB17を失い、なお日本軍主力部隊のリンガエン湾上陸の阻止もできなかった。米国の対日作戦はこの男一人によって崩れた。

 尤も、英米側も誤算があった。日本が強すぎた。日本を震え上がらせると思ったプリンス・オブ・ウェールズは開戦二日目に沈められた。チャーチルが震えた。

 B17も然り。欧州戦域では最強の機も開戦二日目に日本の零戦に会って即座に落とされ、まさかと思ったらその数日後、ボルネオで二機まとめて落とされた。そして半年後、ニューギニア・ラエ上空で五機のB17の編隊と零戦九機が遭遇し、B17は全機落とされた。

 日本相手では「空飛ぶ要塞」もセスナと変わらなかった。