古川雅子(ジャーナリスト)

 厚生労働省は、2025年には全国の認知症高齢者の数が最大730万人に上るという推計値を出している。高齢者の5人に1人という割合は、かなりインパクトがある数字だ。しかも、2060年には1154万人(高齢者の3人に1人)まで増えるというから、もはや誰にとっても認知症が「他人事ではない」時代が目の前に迫っている。

 しかし、この数値から何を読み解くかは、認知症というものをどう捉えているかという私たちそれぞれが持つ視点で大きく違ってくる。

 認知症イコール「徘徊」、もしくは「問題行動」などと短絡的にラベルを貼り当事者そのものを問題視すれば、700万人、1100万人といった数字がそのまま、社会を脅かす事態を想像させてしまう。そういう視線は、認知症の人を追いつめるばかりだ。家や施設に閉じ込められる暮らしというものを、リアルに想像してみてほしい。それは当事者にとってとてつもなく窮屈だし、見守る家族も身動きが取れなくなって負担は増すばかりだ。
 もちろん、深刻な問題は存在する。認知症やその疑いがあり行方不明になる人が年間1万人を超えるとの報告もあり、実際に当事者による鉄道事故も起きた。今、認知症の人が起こした事故や事件の責任を誰がどう負うべきか、いろいろな場で議論が繰り広げられている。

 人々がこうした議論の行方を固唾を飲んで見守っているのは、私たちは今、この社会が「どっちの方向」に向かっていくかの境界線に立っているからだろう。「どっちの」というのをざっくり述べるならば、

(1)〈事故や事件を防止するため安全策を講じる〉、
(2)〈認知症の人の視点に立ち、本人や家族を含む「当事者たちが暮らしやすい社会」をつくる〉

 という方向性である。

 (1)の「事故や事件を防止する」ことは、当事者の安全を第一に考えるという目的では、一見当事者や家族を救う手立てのようにも見える。しかし、「私たち社会の側が巻き込まれたらたまらないから、当事者への監視を強化する」という意図を優先して「(私たち社会の側の)安心を!」とキャンペーンを張るならば、たちまち「認知症になどなりたくない」「なったら終わり」というような恐れが蔓延しかねない。

 むしろ(2)とのバランスのなかで(1)を考えていく視点を、私たちは共有しなければならない。生きづらさを抱えた認知症の人が安心して社会のなかで暮らし、安心して出かけられる社会をつくるには、現時点で社会の何が障がいになっているのか? 家族がそこそこやっていける範囲で見守りを続けていくには、社会からどんな支援が必要なのか? それが実現できた上での安全策とは、どんな形なのだろうかと。私たちは、まずはそこから考えてみようというムーブメントを、もっと本気になって起こしていくべき局面に来ていると感じる。認知症患者というレッテルは剥がし、認知症とは「社原病」(社会環境が影響をもたらす病)だと私たちが認識していれば、変えていくのはむしろ社会の側なのだという視点がはっきり見えてくる。

 認知症が誰にとっても「他人事」ではなく「社会ゴト」だと言える根拠は大きくは二つある。

 一つ目は、そもそも認知症になる引き金のひとつに「加齢」があるという事実。厚生労働省が出しているデータによると、65~69歳の人が認知症になる確率は「1・5%」、70~74歳になると「3.6%」、75~79歳では「7・1%」。そして85歳以上ともなれば、「27・3%」と年齢が上昇するごとに確率が跳ね上がる。女性の平均寿命が80代を超え、男性でも70代後半という長寿社会にあっては、誰もが認知症になる可能性を控えた予備軍なのだ。

 もう一つは、認知症の当事者たちにたくさんインタビューを重ねてきた経験から、当事者の姿は実に多種多様なのだということがわかってきたから。私自身も含め、まだまだ社会の側は、認知症というものに偏見を持っている、勘違いをしていると実感した。