父・真田昌幸と、弟・信繁(幸村)に比べて、真田信之(のぶゆき)はやや影が薄い。しかし、危うい立場の真田家を存続させる難しい役回りを演じ切った信之の手腕は父・昌幸にも劣らない。彼は地味ながら厄介事をすべて引き受けた縁の下の力持ちなのである。

 関ヶ原の戦いで信之は東軍についたが、父と弟は、徳川秀忠率いる3万人の大軍を足止めし、関ヶ原本戦に遅陣させるという大活躍をした。つまり、徳川家にとっては憎んでも憎みきれないのが真田である。そこで家康・秀忠親子にみじんも疑われる余地のないように忠誠を尽くしている。父と弟が流刑となると、真田嫡流が受け継ぐ「幸」の字を捨て、名の「信幸」を「信之」に改めて自責の念を表明。それが功を奏したか、切腹の決まっていた父と弟の配流への減刑をも勝ち取っている。

 大坂の陣では、弟の信繁が豊臣方として参戦し、獅子奮迅の活躍を見せて討死した。信之自身は病で出陣しなかったため、弟と一戦交えずに済んだのは不幸中の幸いだったろう。やがて家康の死後、真田家に強い恨みをもつ秀忠が将軍を継ぎ、信之の立場は不安定になる。ついには上田から松代に移封を命じられた。表向きは加増なのだが、これは事実上、秀忠の嫌がらせといっていい。

 信之も不服だったようで、重要書類をすべて焼き捨て、上田城の樹木や燈篭(とうろう)をすべて持ち去ったという。とはいえ、秀忠が逆らう大名たちを大量に改易に追い込んだことを思えば、その口実を与えなかった信之の政治的手腕は見事だ。
 松代移封後は、城下町の整備や新田開発に勤しみ、家督を二男・信政に譲ったのは1656年のこと。91歳となっていた信之は、隠居生活に入るが、その心は休まることはなかった。

 信政は61歳の高齢で、2年後に逝去。六男・幸道を後継とする遺書を残すが、幸道はまだ2歳だったため、飛び地となっていた沼田領を納めていた長男の子・信利が介入し、お家騒動が勃発する。信利が老中・酒井忠清に働きかけて藩主に収まろうとしたのだ。御家騒動は取りつぶしの口実になりかねないと危機感を抱いた信之が収拾に乗り出し、幸道を正式に3代藩主とすることでことを収めた。

 お家騒動から2年後、当時としては異例ともいえる93歳で信之は世を去る。真田家を存続するために損な役回りを務めねばならなかったが、彼の辣腕(らつわん)ぶりはもっと評価されていい。後に石田三成の書状など、真田にとって不利な書面が真田家に保存されていたことが判明した。やはり本心では信之も徳川が嫌いだったのだろう。 
(渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)