濱口和久(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

 徳川四天王の1人、本多忠勝(ただかつ)の血を引く小松姫は、徳川家康の養女となって、天正14(1586)年、沼田城(群馬県沼田市)の主(あるじ)、真田信之に嫁いだ。このとき、信之は21歳、小松姫は14歳であった。
沼田城本丸跡に建つ鐘楼(提供写真)
沼田城本丸跡に建つ鐘楼(提供写真)
 結婚後の夫婦仲はいたって良好で、小松姫は長女、まんを筆頭に、長男、信政(のぶまさ)、次男、信重(のぶしげ)、次女、まさの2男2女を儲(もう)ける。

 真田氏といえば、徳川氏を3度(第1次上田合戦、第2次上田合戦、大坂夏の陣)にわたって痛めつけたことで有名だ。それが、徳川の治世に、明治維新まで大名として生き残れたのは、小松姫の存在が大きかった。

 小松姫の婿選びには逸話がある。小松姫が、徳川家康の前に居並ぶ若武者たちの髷(まげ)をつかんで次々と顔をのぞいていくなか、信之は「御免」と鉄扇(てっせん)で小松姫の手を払いのけた。毅然とした信之の態度に、小松姫は惹(ひ)かれたというものだ。

 実際は、天正13(85)年の第1次上田合戦の後、徳川氏と真田氏を仲裁した豊臣秀吉の斡旋(あっせん)によるといわれている。同じ年、信之の弟、幸村(ゆきむら)も秀吉の寵臣(ちょうしん)、大谷吉継(よしつぐ)の娘、お利世を娶(めと)った。

 時代が流れ、真田氏の運命を左右するときがきた。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦だ。

 合戦53日前の7月21日、犬伏(いぬぶし=栃木県佐野市)に布陣していた真田昌幸(まさゆき)・幸村父子のもとに、石田三成から挙兵を知らせる密書が届く。昌幸は宇都宮(栃木県宇都宮市)に布陣していた信之を呼び寄せると、取るべき道を話し合う。

 結果、3人は敵味方に分かれて、妻の実家に味方することを決める。昌幸、幸村は豊臣方(西軍)、信之は徳川方(東軍)となり、袂(たもと)を分けることになった。これが「犬伏の別れ」といわれるものだ。

 ちなみに昌幸の妻は、三成の妻と姉妹であったとされる。真田氏にとっては、どちらが勝っても真田の血が絶えないための行動であった。

 昌幸・幸村父子は、籠城戦に備え、犬伏から真田氏の居城である上田城(長野県上田市)に馬を走らせた。途中、孫の顔を見たいと思った昌幸は、小松姫が留守を預かる沼田城に立ち寄った。

 親子で敵味方に分かれたとはいえ、昌幸は義父に対しては、城門を開けてくれるだろうと思っていた。しかし、小松姫は絶対に城門を開けようとはしなかった。