歴史街道編集部


「真田幸村」は間違いなのか?

 

 2月号「真田信繁 大敵に挑んだ『六文銭』の誇り」の内容にからめつつ、真田信繁が何のために大坂の陣を戦ったのかを、考えてみたいと思います。

 まず今回の特集タイトル「真田信繁」について、「真田幸村ではないのか?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。実は一昨年に「真田信繁と冬の陣」という特集を組んだ際も、「信繁は幸村の兄弟ですか?」と真顔で尋ねられたことがあります。

 最近こそ、大河ドラマ「真田丸」の主人公は真田幸村こと真田信繁です、とテレビでPRされたことで、信繁の名前が浸透し始めていますが、たとえば昨年に和歌山県の九度山町を訪れた際も、地元の方々はすべて幸村と呼び、信繁と言う方にはお目にかかれませんでした。

 かく言う私も、まだ幸村の方がしっくりくるような気がします。「幸村と真田十勇士」、「大坂夏の陣と幸村最後の突撃」という具合に、幸村という響きに慣れ親しんでいるからでしょうね。

 2月号の特集では河合敦先生にご解説頂いていますが、同時代史料に幸村という名は見当たらず、真田昌幸の次男の名は「信繁」と記載されています。ちなみに幼名は弁丸、通り名は源次郎、後に与えられた官職名は左衛門佐〈さえもんのすけ〉です。

 従って史実に基づけば、真田信繁が正しいということになります。では、幸村は間違いかというと、一概にそうとはいえないのがややこしいところ。というのも、信州松代藩真田家の江戸時代の史料には、「幸村」と記されているからです。

大河ドラマ「真田丸」の一場面。大坂夏の陣49歳の信繁は葵の旗をめがけて突撃していく
大河ドラマ「真田丸」の一場面。大坂夏の陣49歳の信繁は葵の旗をめがけて突撃していく

 幸村の名は、江戸時代初め(寛文12年〈1672〉)の軍記物『難波戦記』に登場するのが最初といわれ、以後、講談本などにも用いられて、その人気から広く流布し、ついには真田家の史料にもその名が記されるに至ったようです。

 とはいえ、今年の大河ドラマをきっかけに、真田信繁の名が大いに浸透する可能性はあります。果たして幸村から信繁へと変わる記念すべき年となるのか、注目したいところです。