町田康(小説家、ミュージシャン)

【本の話をしよう】

 私は読み狂人、明け方から暮れ方、深夜深更にいたるまで読んで読んで読みまくった挙げ句、読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人の私が考えるのは、人間の心棒、ということである。

曲がったり折れたり、難しい


 これは読み狂人が20年くらい前にたてた仮説なのだけれども、人間が働いて銭を儲け、人と共同して生きていけるのは人間にある種の心棒が入っているからで、その心棒が入っていないと人はぐずぐずに崩れ落ち、あるいは、ガソリンスタンドの前においてある風船人形のように風をはらんで意味不明な動作を繰り返し、滅亡没落してしまうのではないか、と読み狂人は思うのである。

 その心棒は生まれながらに入っているのではなく、言葉がわかるようになった後、親や学校の先生に入れてもらって初めて入る。どういうことかと言うと、向こうからバッグを持った女性が歩いてきたとする。そのバッグはとても素敵なバッグでどうしても自分も持ちたくなった。そこで、落ちていた棒を拾い、すれ違い様、女性の頭を棒で殴って昏倒せしめ、その隙にバッグを奪う、というようなことをする人はほとんどいない。なぜなら、「人を傷つけてはならない」「盗んではならない」という心棒を子供のうちに入れられているからである。

皇室制度についてのヒアリングに臨んだジャーナリストの櫻井よしこ氏
皇室制度についてのヒアリングに臨んだジャーナリストの櫻井よしこ氏
 しかし、心棒というものは難しいもので、グニャグニャのいい加減な心棒だったり、粗悪な心棒だったりすると、すぐに曲がったり折れたりして、「少しくらいなら殴ってもいいか」となるし、かといってやたらと太くて固く、容易に曲がらない心棒だと身体が突っ張らかって人の通行の邪魔になるなど、逆に世の中の迷惑になることもある。

 また、ある年齢になると、心棒の維持・管理、経年劣化した心棒の補修・交換などを自分の責任でやらなくてはならなくなるが、それがうまくいかずに心棒が曲がることもあるし、誤って変妙な心棒を入れてしまうことだってある。読み狂人などはその口で、変な心棒が山ほど入って、あまりにもおかしげな格好になっているので、人目を避けて物陰を移動しているようなていたらくである。

著名人にもある無名の時代


 なんて私のことなどはどうでもよいが、そうして心棒のことを思ったのは、『何があっても大丈夫』を読んだからである。著者の櫻井よし子さんは著名なジャーナリストであるが、読み狂人が物心ついた頃には、既に著名で、著名ということはみなが知っているということで、したがってその人が著名になる過程を敢えて言う人もなく、また、いまのようになんでも検索する時代でもなかったので、読み狂人はいまにいたるまで、その人の経歴を知らぬまま、ときに新聞やテレビなどでその意見に耳を傾けてきた。

 ところが、この自伝、または自伝的な作品を読むと、当たり前の話だが、著者にも無名の時代があり、さらには、学生時代、幼年時代もある。まあ、それを綴ってあるから自伝なのだけれども、驚いたのは、その心棒の強さとしなやかさで、普通の人間であれば、まず間違いなく心棒が屈折するような局面、はっきり言っていまの人間だったら、大曲がりに曲がってしまうような局面で屈折も屈曲もせず、心棒を維持して生きる様に驚く。また、小説家であれば、あるいは小説家でなくても、その苦しい様子を、大喜びで、これでもかというくらい執拗に、ブルース風味で描くところを、この本の場合、まったくそっち方面にいかないというのは、そうしないという心棒が作者に入っているからであるように思う。

 というと、どんな心棒なのだろうか、と思うが、言って気持ちがいい、耳にして心地よい、しかし、グニャグニャで真の危機の際にはあまり役に立たない心棒が大量に流通消費されるいま、自伝であると同時に、この本を読んだ体験がひとつの心棒になるような感じも読み狂人にはあった。心棒を失した、グニャグニャのあほながら、あった。


まちだ・こう 1962年、大阪府生まれ。81年、町田町蔵名義でパンクバンド「INU」のボーカリストとしてデビュー。96年には町田康として処女小説『くっすん大黒』(文芸春秋)で文壇デビュー。2000年に『きれぎれ』(文芸春秋)で第123回芥川賞受賞。近刊に橋本治らとのアンソロジー『12星座小説集』(講談社)。