タバコとアニメとナチスの香り 『風立ちぬ』批判への反論と宮崎駿論

『コンフォール』 愛煙家通信 No.7 2013年秋号

読了まで23分

古谷経衡(批評家)

 これは何かのジョークか、と見紛(みまが)うようなヘッドラインが過日世間を賑(にぎ)わせた。NPO法人「日本禁煙学会」が、現在公開中でロングランが続く『風立ちぬ』に対し、猛烈な抗議を行ったのである。宮崎駿は九月一日、伊・ベネチアでの記者会見で正式に引退を公表した。結果的に本作は宮崎の長編最後の作品となったわけだが、その話題性と相まって本作『風立ちぬ』に対する思わぬ角度からの「抗議」は、今なお多方面から物議を醸かもしている。

 彼らの主張を簡潔にまとめると「作中に登場する喫煙シーンが、喫煙美化であるからけしからん」というものだ。彼らはその主張の仔細を「風立ちぬに対する見解」として自身のWEBサイト上に公表しているが、その検証は後述するとして、彼らが問題視している本作中の喫煙シーンとはどういったものであるのか。まず簡単に振り返ることにしよう。

『風立ちぬ』ポスター
 『風立ちぬ』は作家・堀辰雄の同名小説から舞台設定を拝借し、そこに零戦設計者として著名な堀越二郎の人生を融合させたものであるのは言うまでもない。「禁煙学会」が「問題視」した喫煙シーンとは、ヒロインである菜穂子が肺結核の病を患い、富士山麓のサナトリウムから抜けだして零戦設計者の二郎とつかの間の新婚生活を行う、というくだんのシークエンスの中に登場する。

 菜穂子は死を悟っている。ペニシリンが存在しない当時だから致し方ない。そして「美しくも儚(はかな)い」刹那の同棲生活に身を投じていく。禁煙学会が問題視したのはこの場面だ。日中から床に伏せがちな菜穂子が、ようよう帰宅した二郎をねぎらう。その際、二郎はおもむろにポケットからタバコを一本取り出すが、「あ、ここでは……」と思慮する。つまり菜穂子の肺病に思い至って、その副流煙が彼女の肺を更に侵すのではないか、と躊躇(ちゅうしょ)するのである。しかし菜穂子は「いいから」と一服を促す。そこで初めて、二郎は煙を吐く。このシーンが、「喫煙を魅力的に描いている」とされたその核心なのである。

非喫煙者への宮崎の配慮


 考えるまでもない事だが、このシーンを素直に解釈すると、「タバコの副流煙の害を承知している二郎が、妻の肺病を慮(おもんばか)って一旦、喫煙を躊躇したが、それよりも新婚生活の甘美なるに重きをおいた菜穂子の勧めによって一服する」というもの以外にはない。実はこのシーン、極めて慎重に宮崎駿が非喫煙者(それこそ禁煙学会のような)に対する配慮が込められている場面なのである。
「世界には絶望しかない」

 なぜなら、「副流煙の害」(それが真実かどうかはともかくとして)が巷間言われるようになったのは一九八〇年代から。昭和初期のこの時代、「結核患者の横でタバコを吸うのは悪」という認識は存在していない。もっと言えば、当時、「タバコは肺病に効く」という認識が一般的であった。結核が日本人の死因第一位であった当時、「タバコは肺病の予防薬」とされ珍重されていたのだ。サナトリウムに健常者が見舞いに行く際、結核に罹患(りかん)してはいけないと「消毒」の為に一服してから入る、というのが作法だったという。驚くべきかなこれが当時のタバコと結核に対する認識だったのである。もっと遡(さかのぼ)れば、戦国時代にタバコが伝来して以来、タバコは薬とされ、「頭痛・肺病」に効用ありと、時の漢方医が病人に勧めたのであった。江戸時代に出された「禁煙令」はタバコの害を懸念したのではなく、タバコの失火が大火になることを予防する消防法的な処置である。まして「副流煙が結核に悪い」などと言う認識は、ここ数十年の、全く現代的な新概念に過ぎない。

漫画版『風の谷のナウシカ』(徳間書店)
 ともあれ宮崎は、史実よりも現代における「禁煙リテラシー」とやらを優先してくだんの場面を描写することを選んだ。繰り返すようにこのシーンは、当時の人々の喫煙に対する感覚に照らし合わせて、歴史事実を描いたものではない。にもかかわらず、禁煙学会は「喫煙を魅力的に描いている」という難癖(なんくせ)をつけ、あろうことか「風立ちぬに対する見解」の中で、「主人公のモデルになった人物はタバコを吸わない人だった。歴史をねじ曲げている」と指摘する。皮肉なことに、「歴史をねじ曲げて」、現代人に配慮しているのは宮崎駿自身なのだ。歴史に素直に違えば、二郎は何の躊躇もなく喫煙し、タバコは消毒と同じで肺病に効きめあり、とされなければならない。宮崎駿の良かれと踏んだ配慮が、実に皮肉な結末を迎えているのである。

「世界には絶望しかない」


 禁煙学会による抗議は、更に本作のシーンが、「生命軽視につながる」ことを嘆いている。つまり「風たちぬのテーマは、戦争はやってはいけない=命がいちばん大事だ、と言うことだと思います」(原文ママ)。にもかかわらず、一方で「健康に害のある(生命軽視)」の喫煙シーンが登場するのは、この作品の「崇高なる」テーマ性を傷つけているのだ、という論法である。

 結論から言うと笑止である。宮崎駿とその作品に対して、もっとも典型的な感想がこの手の論調なので、いい加減嫌(いや)になってくる。つまり、宮崎駿作品というものは、「反戦」「生命至上主義」「環境重視」というまたぞろ戦後民主主義的な三拍子揃ったメッセージが込められている、という「古典的」な認識を、彼ら禁煙学会が決定的に有しているということに対する憤慨だ。

 宮崎駿が「反戦」「生命至上」「エコ」の作家だという認識は、一体何処から来るのであろうか。これらの原点は、例えば『風の谷のナウシカ』(八四年・映画版)が金曜ロードショー等で放映される度、その紹介のナレーションで「人と自然の共生を謳い……」という定型句が流れる。多分、このあたりから「宮崎駿=環境主義者(或いは生命至上)」という漠然とした印象が根付いたのかもしれない。実際、「ナウシカ」を俯瞰すると、確かに納得する点はある。巨大産業文明が崩壊して千年後の未来世界。腐海(ふかい)と呼ばれる有毒の粘菌にその生存が圧迫されていた人類が、いま一度、腐海と共に生きる未来を選択して本作は終劇している。なるほど、作家・宮崎駿を語る時、ナウシカは外せないテーマだ。
宮崎は生命至上主義者ではない

 かつてNHKの対談番組『トップランナー』に彼が出演した時、司会者から「(宮崎)監督はいろいろな作品で人と自然の共生というテーマを描いていますよね……」と言われた際、彼はその言葉を即座に否定している。自分は地球環境の大切さや命の重みを描いたことはない……というニュアンスで、「世界には絶望しかない」と切り返した。この言葉の真髄を理解するには、一九八二年から九四年の足掛け十二年にわたって「アニメージュ」(徳間書店)紙上で連載された漫画版の『風の谷のナウシカ』を読み解く必要があろう。

 テレビでよく放映される映画版はこれに先行されて製作・公開されているので、原作である漫画版は、さらに長い長い物語の展開がある。ここでその内容を全て紹介することはしないが、漫画版ナウシカでは、宮崎は「生命とは闇の中に瞬く光だ」と結論している。かつての巨大産業文明を司った人類達は、その行き過ぎた科学礼賛・資本主義礼賛の価値観を反省し、結果人類を「音楽と詩を好む平和で文化的な種族」に改造しようという気宇壮大な計画が暴露される。しかし、宮崎は、主人公の少女・ナウシカに、それを「否!」と喝破させている。

宮崎は生命至上主義者ではない


 美しいもの。健康で健全なるもの。光り輝く人類。そういった考え方こそ、最も生命から遠い、愚かしい存在であると宮崎は指摘している。「人生や人間は、常に光り輝いていなければならない。常に美しくあらねばならない。常に健全でなければならない」とする、そういった設計的な考え方こそ、最も傲慢で醜い考え方であり、それは混濁に満ちた生命ではなく単なる人工の汚物だ、と宮崎は謳っているのである。泥水をすすり、病に侵され、己の欲に抗しきれず、それでも生きたい。その惨めで、俗にまみれた絶望の命の姿の中にこそ、一縷(いちる)の光がある。それこそが「生命の本質である」と謳って、漫画版ナウシカは終劇していく。

『もののけ姫』ドイツ語版DVD
 この宮崎駿の哲学は、続く『もののけ姫』(九七年)でも明確に継承されていく。劇中、ハンセン病を患う包帯の「長(おさ)」と呼ばれる男が登場する。主人公「アシタカ」が、タタラ場(踏鞴(たたら)製鉄所)の女棟梁であるエボシ御前を殺害しようと目論む場面だ。男は唯一、自身を人間として扱ってくれた恩人であるエボシ御前の助命を乞うた上で、次のように吐露するのである。

「生きる事は誠に苦しく辛い。世を呪い、人を呪い、それでも生きたい。どうか愚かなわしに免じて……」

 日本アニメーション史上、燦然と輝く名シーンである。ハンセン病は当時、病態が進行するとその病相から「業病」と呼ばれ、忌み嫌われた。前世の行いが悪いからだと烙印を押され、村の共同体から放逐され、路傍に迷った彼らがやがて「非人」などの身分に落とされていく。恐らく病状末期の「長」は、鼻が落ち、腐った顔面の、その包帯の下のわずかな眼窩の窪みがしっとりと涙で濡れている。

 宮崎駿は生命至上主義者ではない。人生や人は素晴らしいものだといっているわけでもない。世界が光り輝いているなどとは決して思っては居ない。世や人生は絶望と苦しみしか無い。しかし、それでも生きたい。生きていきたいと願う、その俗っぽい泥の中から出る、生命の根源の一縷の力。つまり絶望の傍らにこそ、彼は光を見ているのである。だからこそ人間は素晴らしく、また美しいのだと宮崎は一貫して描いている。因みに、「もののけ姫」にも、当時の明朝からの輸入品と思われるキセルでタバコを吸うシーンがあるが、こちらには難癖がつかないのは実に不思議だ。
宮崎アニメへの歪んだイメージ

宮崎アニメへの歪んだイメージ


 この「宮崎哲学」を踏まえると、『風立ちぬ』もまた実に首尾一貫していることが分かる。零戦という航空機に於ける最高峰の「美」は、開戦と同時に次々と連合軍機を屠(ほふ)った。しかし他方、圧倒的な米軍の物量に次第に押され、最終的には特攻機として使用された悲劇の名機でもある。零戦は、このように明と暗の二面性が同居している。

 『風立ちぬ』には、昭和恐慌直後の、荒(すさ)んだ都市貧民の姿も描写されている。宮崎は企画書で「まず美しい戦前の日本を描きたい」としているが、その美しさの中には、不況で日銭すらままならない、貧困の様子も活描されている。しかし、その二面性、光と影の同居こそ、彼はもっとも素晴らしい「美」として描いているのである。

 結核に侵された菜穂子と二郎のつかのまの新婚生活にしても同じだ。常に死の影にさらされている菜穂子は、やがてくる悲劇の零戦設計者・二郎の伴侶に相応(ふさわ)しい「暗」を背負っている。本作の音声には一部奇妙な効果がある。それは、関東大震災の地鳴りと、飛行機のエンジン音の両方に、人間の、低い、不気味な声があてがわれていることだ。これはこの両者に、破壊という魔物が住み着いていることを暗示する演出である。大空を優雅に、美しく飛ぶ航空機のすぐ背後には、人間の破壊と欲望の衝動が同居しているのである。だからこそ、それは単純な光にも増して、美しく光彩を放っているのである。

 私は、禁煙学会が指摘する「喫煙の美化」という頓狂な主張以前に、彼らが、実のところ全く宮崎駿の作品を理解していないことに絶望した。繰り返しになるが、宮崎駿は「戦争が悪い」とか「命が大切だ」などという単純なメッセージなど何処にも配列していない。寧むしろ彼は、実のところそういった考え方そのものを「醜い肉塊」として最も問題視しているのである。

「人間は、清く、正しく、健康で健全であらねばならない」

 というその傲慢な考え方こそ、光を奪い、生命を醜くしている元凶であるというのだ。正しくこの哲学で言うと、禁煙学会の考え方そのものが、宮崎駿の唾棄(だき)すべき思考であり人種にほかならない。が、作品自体を見ていないのか、そもそもよく思考していないのか、全く的はずれなイメージと論調ばかりが一方で独り歩きしている。いかに世界的で、国民的な宮崎駿とはいえ、こういった歪んだ宮崎へのおかしな期待とイメージの集大成が禁煙学会の今回の抗議であるといえよう。

 もう一つ、重要な禁煙学会の主張は「風立ちぬに関する見解」の中で、彼らが指摘する「(風立ちぬの)喫煙シーンは、子供に悪い影響を与える」とする部分である。ご丁寧にどこぞの統計資料まで持ちだして、「喫煙シーンを観た子供の多くが、影響を受けて喫煙者になる」という「調査」を公表しているのだ。つまり、禁煙学会は、宮崎駿の作品を「子供向けの作品である」と捉えている。これも全くの噴飯の認識であると言わなければならない。

 宮崎駿の作品は、確かに『となりのトトロ』(八八年)など、子供が素直に見てはしゃぐことの出来る作品はある。『天空の城ラピュタ』(八六年)も、正統的な冒険譚であり学童でも楽しめよう。しかし少なくとも『風立ちぬ』は子供向けとは言い難い。前出した『もののけ姫』でもそうだが、九〇年代後半以降の宮崎駿は、学童に向けた正統的な、わかりやすい起承転結の作品を作っているわけではない。

 私は『風立ちぬ』を観に劇場に二回足を運んだが、本作の客層の主軸は青年以上の中・高年であり、一〇代以下の姿は極めて少なかった。むしろ、少しアニメ事情に詳しいものであれば、現在の子供を含んだファミリー向けの大衆アニメ作品の中核は、宮崎では無く細田守に移行していることを知っている筈だ。宮崎作品は子供向け、という古典的な図式そのものが、既にここ十数年で崩れているのである。
禁煙学会のアニメ観

禁煙学会のアニメ観


 にもかかわらず、禁煙学会は宮崎作品は子供向けと一方的に決めつけ、その与える影響を嘆いている。彼らのアニメ全般に対する無理解がその背景に横たわっているのである。

 そこには「アニメは子供が見るものだ」というぬぐい去れない蔑視の感情が見え隠れする。喫煙云々以前に、こういった認識こそ、世の批判にさらされるべきであろう。

 私が中高校生の時、世で空前の大ブームとなった作品があった。『新世紀エヴァンゲリオン』(九五年放映開始・以下エヴァ)がそれである。受験勉強をほっぽり出し、寝る時間を惜しんでビデオを見た。関連書籍を片っ端から読み漁った。九七年の劇場版では、公開日の前日から十数時間、友人と共に列に並んだ。後に「第三次アニメブーム」と呼ばれることになった当時、私は齢十四歳だった。

 『エヴァ』には喫煙者が登場する。赤木リツコという女性の研究者が、野戦指令部のラボ(研究室)でタバコを吸うシーンが頻出するのだ。本作は、テレビ東京系列で夜の六時半から七時の「ゴールデンタイム」に放映されていた。当時「喫煙シーンはけしからん」などという抗議は聴いたことがなかった。そのシーンに影響されて、喫煙者になったという人間も見たことはない。私は『エヴァ』の薫陶を受けたど真ん中の世代だが、何を隠そう現在でも私は非喫煙者なのである。

 赤木リツコという女性喫煙者の登場により、女性の喫煙率は上昇したのか? 厚生労働省の統計では、女性喫煙率はここ二十年間横ばいが続いており、直近では斬減(ぜんげん)傾向にある。

『エヴァ』の他にも、近年の作品の中には『カウボーイ・ビバップ』(九八年)、『ブラック・ラグーン』(〇六年)でも顕著に女性喫煙者が登場する。モンキー・パンチ原作の『ルパン三世』もアニメ版の放映は七一年から行われており、次元大介が常にタバコをくゆらせている。『機動警察パトレイバー』(八九年)でも、主役級の刑事はいつもマイルドセブンを携行している。

 これらが喫煙率の上昇を招いているどころか、この間一貫して喫煙率は大幅に低下しているではないか。アニメと禁煙率には何の相関もない。そしてやはり、そこには「アニメは判断力に乏しい子供の見るものだ」という大前提的な刷り込みが見え隠れしている。「アニメ=子供向け」「アニメ=低俗なもの」という認識が、禁煙学会の根底にあるアニメ観にほかならない。アニメの登場人物の所作をそのまま模写して喜ぶほど、アニメを見る子供は馬鹿ではない。

よい映画とは何か


 禁煙学会の抗議を巡っては、賛否両論の立場からさまざまな議論が百出している。「(風立ちぬの登場人物は)非喫煙者だったのだから歴史の歪曲だ」という前出の抗議に対しては「当時の喫煙率からいって、成人男子の喫煙は歴史的事実に沿ったもの」という反論がなされる。一方、「(喫煙シーンを)描くのは憲法が保証する表現の自由だ」という反撃が真っ先に行われている。これに対して禁煙学会は「(嫌煙を言うのも)表現の自由だ」と言う。堂々巡りが続く。

 重要なのは歴史的事実に忠実なのかどうか、ではない。歴史的事実に忠実な作品が良い作品である、という事になれば、時代劇の描写はほとんどすべてが間違っている。大抵の場合、既婚女性はお歯黒をしていないし、暴れん坊将軍が駆け抜ける夜の江戸の街は、ガス灯が発明される前なので、もっと真っ暗なはずだし、幕府の官吏が乗る馬も、背の低い品種改良前の純血種でないとおかしい。しかし暴れん坊将軍は国民的な時代劇の代名詞として、現在でも我が国で広く親しまれている。
喫煙シーンへの背筋が凍る警告

 史実に忠実な作品が必ずしも素晴らしい作品とは限らない。世界的に評価された黒澤明の『乱』も、戦国時代が舞台だが登場するのは世継ぎ争いが勃発した大名・一文字家である。そんな大名は存在していない。『乱』は『リア王』をモデルとした黒澤明の創作だ。『シンドラーのリスト』はナチス・ドイツ下のドイツが舞台で登場するのはドイツ人だが、登場人物全員が英語を使っている。ユダヤ人を救った実際のオスカー・シンドラーは英語を喋らない。しかし、この作品はアカデミー賞を受賞し、映画史に名を残している。事ほど左様に、創作物とは、常に虚構が伴っている。虚構があるから駄目だというふうにはならない。虚構があるからおかしいとか、歴史と違うから駄目だ、という批判は、そもそも映像作品を評するにあたっては的外れも著しい。仮に虚構が存在していようと、私は『風立ちぬ』は傑作に違いないと思う。

 表現の自由、という問題もある。禁煙学会の言う「表現の自由の侵害(という批判)は、国家権力に対して行われるべき批判であって、民間団体の我々は正統な権利を行使しているだけ」というのも誠に腑に落ちない。そうであるならば、その権利の行使が『風立ちぬ』のみに限局されている理由もまた説明しなければならないが、その理由は全くなされていない。つまり、民間団体の恣意的な選別――たまたまそれがヒットしている宮崎駿の最新作だったから――が介在しているという疑いを向けられても仕方がない。前述したとおり、登場人物が喫煙を行う作品は、『風立ちぬ』以外にも数多く存在するからである。宮崎駿の作品の中で、最も多く喫煙シーンが登場する『紅の豚』(九二年)がまっさきに槍玉にあがらないのも、彼らの強烈な不作為を感じるのだ。

喫煙シーンへの背筋が凍る警告


 筒井康隆氏の短編小説である『最後の喫煙者』(八七年発表)は、嫌煙運動をシニカルに描いた傑作中の傑作であるが、全体主義の恐怖を描いたという点では、ジョージ・オーウェルの『一九八四』、レイ・ブラッドベリの『華氏四五一』と通底している。今回の禁煙学会による『風立ちぬ』への非難は、はからずもこういった往年の古典的SFが警鐘を鳴らした、全体主義への危機感を彷彿とさせるものであった。ナチス・ドイツは、自らの体制に相いれぬ作家の作品を「非ドイツ的」とカテゴライズし、「退廃芸術展」としてドイツ各地で大々的に見せしめにし、それでも飽きたらず焚書した。トーマス・マンなどの作家やパウル・クレー、グスタフ・クリムトやエゴン・シーレといった画家をことごとく追放した。戦後、評価を受けたのは退廃的と烙印を押された彼らの側だったのは実に皮肉な話である。

 こういった創作への弾圧は、実につまらない理由で開始される。クリムトは女の裸ばかり描いているという理屈で、ゲッペルスに睨まれた。退廃芸術の巣窟と名指しされたバウハウス(美術学校)は、当時の校長であるハンネス・マイヤーが共産主義者だったからという理由だけで徹底的に弾圧された。なにもこういった風潮はドイツに限ったことではない。戦後のアメリカでも、チャップリンが同じ理由で追放されイギリスに亡命している。今や古典となっているエルビス・プレスリーは当時、宗教色の強いアメリカ南部でレコードが焚書運動の対象になった。理由は「ダンスの腰使いが卑猥だから」。今考えれば実に馬鹿馬鹿しい理由だが、放置しておくと、大変な目に合うことは歴史が証明している。『風立ちぬ』への批判はこのように最早、喫煙者と非喫煙者の確執、という単純な図式に収まりきれない深刻な示唆を含んでいる。

 禁煙学会は、「風立ちぬに関する見解」の最後に、「風立ちぬに限らず、映像作品を制作するすべての方々に対し、タバコシーンがもたらす影響を熟慮いただきたい」と結んでいる。背筋が凍る警告である。これを許容すると、次は「登場人物が肉ばかり喰うのは健康志向に害を与える」とか、「酒を呑むシーンが未成年者飲酒を助長する」とか、「電車の中でメールを送るシーンはマナー違反である」とか、数限りないアニメや映画に対する難癖が付けられる。

 そういったシーンを含む作品は、「退廃的」の烙印を押され、果ては焚書され、後には綺麗で、害のない、光り輝く、「健康で文化的」な平和の作品ばかりが燃えカスのように残ることになるだろう。 世界には、清潔で、都市的で、洗練された、風通しの良い空間だけが残ろう。宮崎が訴えたように、この考えこそ生命の終焉であり、醜い肉塊であるとわからなければならない。生命は闇の中に瞬く光だ。人生とは明と暗の混沌だ。タバコの煙の中に、宮崎駿が込めた哲学を垣間見た気がする。

ふるや・つねひら 1982年、北海道札幌市生まれ。立命館大学文学部史学科卒。ネットと「保守」、メディア問題、アニメ評論などのテーマで執筆活動を行っている。著書に『竹島に行ってみた!』『韓流、テレビ、ステマした』『ネット右翼の逆襲』など。
(※iRONNA編集部注:肩書き等は『コンフォール』掲載当時のものです)

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