なぜなら、「副流煙の害」(それが真実かどうかはともかくとして)が巷間言われるようになったのは一九八〇年代から。昭和初期のこの時代、「結核患者の横でタバコを吸うのは悪」という認識は存在していない。もっと言えば、当時、「タバコは肺病に効く」という認識が一般的であった。結核が日本人の死因第一位であった当時、「タバコは肺病の予防薬」とされ珍重されていたのだ。サナトリウムに健常者が見舞いに行く際、結核に罹患(りかん)してはいけないと「消毒」の為に一服してから入る、というのが作法だったという。驚くべきかなこれが当時のタバコと結核に対する認識だったのである。もっと遡(さかのぼ)れば、戦国時代にタバコが伝来して以来、タバコは薬とされ、「頭痛・肺病」に効用ありと、時の漢方医が病人に勧めたのであった。江戸時代に出された「禁煙令」はタバコの害を懸念したのではなく、タバコの失火が大火になることを予防する消防法的な処置である。まして「副流煙が結核に悪い」などと言う認識は、ここ数十年の、全く現代的な新概念に過ぎない。

漫画版『風の谷のナウシカ』(徳間書店)
 ともあれ宮崎は、史実よりも現代における「禁煙リテラシー」とやらを優先してくだんの場面を描写することを選んだ。繰り返すようにこのシーンは、当時の人々の喫煙に対する感覚に照らし合わせて、歴史事実を描いたものではない。にもかかわらず、禁煙学会は「喫煙を魅力的に描いている」という難癖(なんくせ)をつけ、あろうことか「風立ちぬに対する見解」の中で、「主人公のモデルになった人物はタバコを吸わない人だった。歴史をねじ曲げている」と指摘する。皮肉なことに、「歴史をねじ曲げて」、現代人に配慮しているのは宮崎駿自身なのだ。歴史に素直に違えば、二郎は何の躊躇もなく喫煙し、タバコは消毒と同じで肺病に効きめあり、とされなければならない。宮崎駿の良かれと踏んだ配慮が、実に皮肉な結末を迎えているのである。

「世界には絶望しかない」


 禁煙学会による抗議は、更に本作のシーンが、「生命軽視につながる」ことを嘆いている。つまり「風たちぬのテーマは、戦争はやってはいけない=命がいちばん大事だ、と言うことだと思います」(原文ママ)。にもかかわらず、一方で「健康に害のある(生命軽視)」の喫煙シーンが登場するのは、この作品の「崇高なる」テーマ性を傷つけているのだ、という論法である。

 結論から言うと笑止である。宮崎駿とその作品に対して、もっとも典型的な感想がこの手の論調なので、いい加減嫌(いや)になってくる。つまり、宮崎駿作品というものは、「反戦」「生命至上主義」「環境重視」というまたぞろ戦後民主主義的な三拍子揃ったメッセージが込められている、という「古典的」な認識を、彼ら禁煙学会が決定的に有しているということに対する憤慨だ。

 宮崎駿が「反戦」「生命至上」「エコ」の作家だという認識は、一体何処から来るのであろうか。これらの原点は、例えば『風の谷のナウシカ』(八四年・映画版)が金曜ロードショー等で放映される度、その紹介のナレーションで「人と自然の共生を謳い……」という定型句が流れる。多分、このあたりから「宮崎駿=環境主義者(或いは生命至上)」という漠然とした印象が根付いたのかもしれない。実際、「ナウシカ」を俯瞰すると、確かに納得する点はある。巨大産業文明が崩壊して千年後の未来世界。腐海(ふかい)と呼ばれる有毒の粘菌にその生存が圧迫されていた人類が、いま一度、腐海と共に生きる未来を選択して本作は終劇している。なるほど、作家・宮崎駿を語る時、ナウシカは外せないテーマだ。