かつてNHKの対談番組『トップランナー』に彼が出演した時、司会者から「(宮崎)監督はいろいろな作品で人と自然の共生というテーマを描いていますよね……」と言われた際、彼はその言葉を即座に否定している。自分は地球環境の大切さや命の重みを描いたことはない……というニュアンスで、「世界には絶望しかない」と切り返した。この言葉の真髄を理解するには、一九八二年から九四年の足掛け十二年にわたって「アニメージュ」(徳間書店)紙上で連載された漫画版の『風の谷のナウシカ』を読み解く必要があろう。

 テレビでよく放映される映画版はこれに先行されて製作・公開されているので、原作である漫画版は、さらに長い長い物語の展開がある。ここでその内容を全て紹介することはしないが、漫画版ナウシカでは、宮崎は「生命とは闇の中に瞬く光だ」と結論している。かつての巨大産業文明を司った人類達は、その行き過ぎた科学礼賛・資本主義礼賛の価値観を反省し、結果人類を「音楽と詩を好む平和で文化的な種族」に改造しようという気宇壮大な計画が暴露される。しかし、宮崎は、主人公の少女・ナウシカに、それを「否!」と喝破させている。

宮崎は生命至上主義者ではない


 美しいもの。健康で健全なるもの。光り輝く人類。そういった考え方こそ、最も生命から遠い、愚かしい存在であると宮崎は指摘している。「人生や人間は、常に光り輝いていなければならない。常に美しくあらねばならない。常に健全でなければならない」とする、そういった設計的な考え方こそ、最も傲慢で醜い考え方であり、それは混濁に満ちた生命ではなく単なる人工の汚物だ、と宮崎は謳っているのである。泥水をすすり、病に侵され、己の欲に抗しきれず、それでも生きたい。その惨めで、俗にまみれた絶望の命の姿の中にこそ、一縷(いちる)の光がある。それこそが「生命の本質である」と謳って、漫画版ナウシカは終劇していく。

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 この宮崎駿の哲学は、続く『もののけ姫』(九七年)でも明確に継承されていく。劇中、ハンセン病を患う包帯の「長(おさ)」と呼ばれる男が登場する。主人公「アシタカ」が、タタラ場(踏鞴(たたら)製鉄所)の女棟梁であるエボシ御前を殺害しようと目論む場面だ。男は唯一、自身を人間として扱ってくれた恩人であるエボシ御前の助命を乞うた上で、次のように吐露するのである。

「生きる事は誠に苦しく辛い。世を呪い、人を呪い、それでも生きたい。どうか愚かなわしに免じて……」

 日本アニメーション史上、燦然と輝く名シーンである。ハンセン病は当時、病態が進行するとその病相から「業病」と呼ばれ、忌み嫌われた。前世の行いが悪いからだと烙印を押され、村の共同体から放逐され、路傍に迷った彼らがやがて「非人」などの身分に落とされていく。恐らく病状末期の「長」は、鼻が落ち、腐った顔面の、その包帯の下のわずかな眼窩の窪みがしっとりと涙で濡れている。

 宮崎駿は生命至上主義者ではない。人生や人は素晴らしいものだといっているわけでもない。世界が光り輝いているなどとは決して思っては居ない。世や人生は絶望と苦しみしか無い。しかし、それでも生きたい。生きていきたいと願う、その俗っぽい泥の中から出る、生命の根源の一縷の力。つまり絶望の傍らにこそ、彼は光を見ているのである。だからこそ人間は素晴らしく、また美しいのだと宮崎は一貫して描いている。因みに、「もののけ姫」にも、当時の明朝からの輸入品と思われるキセルでタバコを吸うシーンがあるが、こちらには難癖がつかないのは実に不思議だ。