宮崎アニメへの歪んだイメージ


 この「宮崎哲学」を踏まえると、『風立ちぬ』もまた実に首尾一貫していることが分かる。零戦という航空機に於ける最高峰の「美」は、開戦と同時に次々と連合軍機を屠(ほふ)った。しかし他方、圧倒的な米軍の物量に次第に押され、最終的には特攻機として使用された悲劇の名機でもある。零戦は、このように明と暗の二面性が同居している。

 『風立ちぬ』には、昭和恐慌直後の、荒(すさ)んだ都市貧民の姿も描写されている。宮崎は企画書で「まず美しい戦前の日本を描きたい」としているが、その美しさの中には、不況で日銭すらままならない、貧困の様子も活描されている。しかし、その二面性、光と影の同居こそ、彼はもっとも素晴らしい「美」として描いているのである。

 結核に侵された菜穂子と二郎のつかのまの新婚生活にしても同じだ。常に死の影にさらされている菜穂子は、やがてくる悲劇の零戦設計者・二郎の伴侶に相応(ふさわ)しい「暗」を背負っている。本作の音声には一部奇妙な効果がある。それは、関東大震災の地鳴りと、飛行機のエンジン音の両方に、人間の、低い、不気味な声があてがわれていることだ。これはこの両者に、破壊という魔物が住み着いていることを暗示する演出である。大空を優雅に、美しく飛ぶ航空機のすぐ背後には、人間の破壊と欲望の衝動が同居しているのである。だからこそ、それは単純な光にも増して、美しく光彩を放っているのである。

 私は、禁煙学会が指摘する「喫煙の美化」という頓狂な主張以前に、彼らが、実のところ全く宮崎駿の作品を理解していないことに絶望した。繰り返しになるが、宮崎駿は「戦争が悪い」とか「命が大切だ」などという単純なメッセージなど何処にも配列していない。寧むしろ彼は、実のところそういった考え方そのものを「醜い肉塊」として最も問題視しているのである。

「人間は、清く、正しく、健康で健全であらねばならない」

 というその傲慢な考え方こそ、光を奪い、生命を醜くしている元凶であるというのだ。正しくこの哲学で言うと、禁煙学会の考え方そのものが、宮崎駿の唾棄(だき)すべき思考であり人種にほかならない。が、作品自体を見ていないのか、そもそもよく思考していないのか、全く的はずれなイメージと論調ばかりが一方で独り歩きしている。いかに世界的で、国民的な宮崎駿とはいえ、こういった歪んだ宮崎へのおかしな期待とイメージの集大成が禁煙学会の今回の抗議であるといえよう。

 もう一つ、重要な禁煙学会の主張は「風立ちぬに関する見解」の中で、彼らが指摘する「(風立ちぬの)喫煙シーンは、子供に悪い影響を与える」とする部分である。ご丁寧にどこぞの統計資料まで持ちだして、「喫煙シーンを観た子供の多くが、影響を受けて喫煙者になる」という「調査」を公表しているのだ。つまり、禁煙学会は、宮崎駿の作品を「子供向けの作品である」と捉えている。これも全くの噴飯の認識であると言わなければならない。

 宮崎駿の作品は、確かに『となりのトトロ』(八八年)など、子供が素直に見てはしゃぐことの出来る作品はある。『天空の城ラピュタ』(八六年)も、正統的な冒険譚であり学童でも楽しめよう。しかし少なくとも『風立ちぬ』は子供向けとは言い難い。前出した『もののけ姫』でもそうだが、九〇年代後半以降の宮崎駿は、学童に向けた正統的な、わかりやすい起承転結の作品を作っているわけではない。

 私は『風立ちぬ』を観に劇場に二回足を運んだが、本作の客層の主軸は青年以上の中・高年であり、一〇代以下の姿は極めて少なかった。むしろ、少しアニメ事情に詳しいものであれば、現在の子供を含んだファミリー向けの大衆アニメ作品の中核は、宮崎では無く細田守に移行していることを知っている筈だ。宮崎作品は子供向け、という古典的な図式そのものが、既にここ十数年で崩れているのである。