タバコが健康に悪いかどうかという議論は「もはや、これまで!」

『コンフォール』 愛煙家通信 No.8 2014年冬号

読了まで21分

黒鉄ヒロシ(漫画家)


佐藤英明(撮影)

ヒトラーのブラックユーモア


 正しいと信じて成したことが実は間違っていた──後世から歴史を振り返ってみると、 そういう例はいくらでも出てきます。自分の意見は正義である、非の打ちどころがないと思っても、その考えの発露は個人の来し方と、それまでの学習にあるわけですから、それがもし間違っていたらどうなるのか。それをまず疑ってかからなければいけない。

 早い話が、韓国の朴撞恵(パククネ)大統領の「加害者と被害者の立場は千年たっても変わらない」云々とい う発言。歴史を知っている人なら吹き出すよね。十三世紀の蒙古襲来、いわゆる「元冠」のとき、その気のなかった元を焚きつけて日本侵略の先陣を切り、対馬・壱岐の島民を虐殺したのは高麗です。あまつさえ、日本文物を教えたのは自分たち朝鮮人だと思い込んでいる。

 歴史や事実を客観的に見るということがいかに難しいか、お隣の国々をみるだけでよくわかるでしょう。うっかりすると、村落全体が魔法にかかっている恐れもあるし、村落が国家に拡大すると、国民を魔法にかける為政者も出てくる。

 それに照らしてみると、国家が国民の健康に口出しし始めたときは危ない。そういうときの国家は、国民を税金取り立ての対象、あるいは兵隊の頭数としか見ていません(笑)。ここには国家としての欲望が必ず潜んでいるんです。

 禁煙を国策として国民に最初に押しつけたのは ヒトラーです。彼は母親を肺がんで亡くしている。自分は貧乏でタバコが買えなかった恨みもあって、それをタパコのせいにしました。それで、健康な兵隊と、健康な兵隊を産む女性がほしかったために禁煙を命じた。ドイツの実験的・即物的、ブラックユーモア的な面白さがそこにあるんですが、ただし、当時のドイツ医学の総力を上げてタバコと肺がんの関係を調べたけれど、結論が出なかった。 あのドイツにして立証できなかったんですよ。

 そもそも副流煙がどうこう言われ出したのは、ノルウェーの女性首相ブルントラントがWHO(世界保健機関)の事務局長に就任したとき(一九九八年)の演説で「煙草は人殺しの悪魔だ」と喫煙批判をしたのがきっかけです。ところが、彼女はあのときは“電磁波過敏症”とかいう 病気にかかっていて、だから、あんなに過激な発言をしてしまったと後に謝っているんです。でも、 一度口にしたことをあとから謝っても遅い。ご承知のように、WHOは世界中の医療を牛耳っていますから、医療関係者みんながそれにおもねって、「ハイハイおっしゃるとおりでございます」と認めてしまった。ヒトラー、ブルントラントの思い込みから始まっているんです。

 よく言われる「オーラ」にしても、ロシア人の 学者が植物から何やらボワーッと出ているものを写真に撮って、それがオーラとして広まったんで すが、その学者はあとから単なる水蒸気が写ったものだったと誤りを認めているんです。それでもいまだにみんな「オーラ」が見える、見えないと騒いでいる。一度強い印象を与えてしまったものをもとに戻すのは至難のわざなんです。

設問自体を疑え

設問自体を疑え


 タバコが健康に悪いかどうかという議論から一歩引いて、見かたを変えてみれば、もともとはアメリカ大陸の原住民が神との交信に使っていた。タバコは神事・祭杷や呪術に用いられていたわけです。つまり、喫煙は宗教活動だった。そういう観点からすると、健康に悪いからやめろというのは信教の自由を脅かすものということになる(笑)。宗教の儀式に対して外部からあれこれ批判すべきではないでしょう。まあ、人身御供みたいなことになると、人権問題だ、野蛮だというのでやめさせるのはわかります。だけど、タバコを健康という観点だけからみるのはあまりに一面的だ という話です。

 そもそも「体にいいか悪いか」という設問自体が正しいかどうかを疑いもせず、嫌煙に飛びつくのは、わたしだけはオレオレ詐欺にひっかからな いと言っていながらだまされるような人たちでしょうね。設問自体を疑ってかかれば、まず、健康の意味をちゃんと説明できるかどうかが前提になる。長生きすなわち健康なのか。健康ブームというのも、そういうあまり深くものを考えない人たちに 支えられているんでしょうね。健康食品とか何とかいって、通信販売でとんでもないものを売っているじゃないですか(笑)。それをやすやすと買うのは、お値段も手ごろだし、編されても腹は立たないからなのかな。

 ちょっと前までは、「どうぞ、どうぞ」と勧めないまでも、「俺の前でタバコを吸うな」という人はいなかった。それでは角が立つから、副流煙の話を持ち出したんでしょう。そばにいるわたしにも実害があるんだからやめてくれということですね。あげくに子供の目の高さに煙草があるから危険だと言い始めた。そこまで言われると、「もはや、これまで」(笑)。

 要するに、正義である、完全無欠であると信じている考えにも穴がいっぱいありますよということです。当然、いましゃべっている私にしても同じですよ。ただ、私は“断定”はしない(笑)。健康って、百人いれば百人とも考えが違ってしかるべきで、地域によっても違うだろうし、時代や、四季折々によってもそれぞれ違うでしょう。

 それを明確に説明できずに「タバコは健康に悪い!」と主張する人たちには、遊びというか余裕というか、幅というか、そういうものは理解の外なんですね。禁煙運動でも嫌煙でもどちらでもいいんですが、現象をみてフッと笑える人間でないと、語る資格がない。全方位的なユーモアの感覚がないとね。おそらく、人生もそうでしょう。「かくあるべし」みたいに断定する人聞は「もはや、これまで」です。「生まれちゃったよーん」みた いな感じで生きていくのがいい。

 赤ちゃんはオギャーと泣いて生まれるけれど、もし言語を習得していれば、実は生まれた瞬間に「もはや、これまで!」と叫ぶべきなんだ(笑)。
鄧小平のカンチガイ


鄧小平のカンチガイ


 ところが、これが困っちゃうんだけど、生きていくためにはヘラヘラ笑ってばかりもいられない。「なーんちゃって」って笑いつつも、締めるところは締めないと、せっかく生まれてきて、ダラダラしているだけだと困っちゃうわけです。どこかに心棒を通さにゃいかん。そう考えると、日本人が考えた武士道というのは実によくできているんですよ。いろいろな意味で完全無欠な、神がかった奇跡に近い。まあ神がいるかどうかはまた別問題 だけれど(笑)。武士道を規範にすれば、まず他人に余計な口出しはしませんね。自慢もしないし、自らについて多くを語らない。それに覚悟がある。

 武士道があったから、日本は西洋列強の脅威に屈せず、明治維新を成し遂げた。それどころか、あっというまに西洋に追いついてしまいました。ペリーが黒船で来航してから国産の軍艦で清を打ち破るまで、わずか四十一年です。まさに驚天動地。こんなことは人類史上、二度とできません。

 それで中国・朝鮮が、それまでパカにしていた武士道、明治維新というものを勉強するんですよ。西洋もしました。アメリカもいまだに研究しています。ところが、理解できない(笑)。これは彼らにはどうしても理解できないでしょうね。毛沢東、周恩来なんかはいい線までいったんですが、やはり途中でギプアップした。  

黒鉄氏と西部蓮氏が人類への絶望を朗らかに
語り合った対談集『もはや、これまで』
( P H P研究所)
 でも、 毛沢東を讃美するつもりはないけれど、とりあえずは中国を支配するところまでいったやつだから、ある程度の見る目はあるんですね。彼は共産党が政権をとれたのは日本のおかげだと言っています。これはシニカルでもあるし、嫌味でもあるんだけれど、それを言語化したというのは、さすがに彼は日本をそこそこ理解できていたんだと思う。まあ中国六千年という嘘はついているけれど(笑)。それに比べると、鄧小平はまったくわかっていなかった。
       
 鄧小平が副総理だった一九七八年(昭和五十三年)に来日して新幹線に乗ったとき、日本の技術力に驚嘆して、「わが国は遅れている、この技術を何としても手に入れたい」と非常に真塾な態度で頭を垂れた。車窓に目を移してジーッと見ていた鄧小平の姿に日本人は好感を持ったんですよ。それから三十年後に、日本の技術をコピーしたかパクッたか、あるいは日本から持ち込んだ車両の色を塗り替えたのかはともかく(笑) 、中国は新幹線を走らせました。

 ところが、これは記録に残っているんですけれど、鄧小平は改革解放をスタートさせた当時、こんなことを言っていた。「日本ごときがこれほどの経済成長を成し得たのであるから、大中国に成し得ないわけがない」と。

 その理屈がむちゃくちゃです。鄧小平いわく「中国は大国である、人口が多い、それに社会主義国である。だから日本ができたことは中国にもできる」。これは謎ときにも何にもなっていない。だから、やはり失敗した。いまだに日本にできたことができていません。この謎ときは、実は武士道よりさらに前、織田信長まで遡るんです。
「天下一!」の価値観


「天下一!」の価値観


 ものづくりに対して、信長は「天下一!」と褒め称えました。それを秀吉も踏襲し、家康も踏襲しますから、日本一の畳屋とか瓦職人とかが各分野に出てくるわけです。このときに価値の転換が行われた。金銀とは異なる価値、最高のものをつくるという価値観を日本人全員が自覚し、共有したんです。自分のつくったものは、誰にも負けないという誇りを持った。納期を守らないといけないんだから、芸術家ではないんですよ。職人として最高のものをつくろうとみんなが励むから、勢い頭がよくなってしまう。

 これは学歴やアカデミックな知識とは違う。知恵という意味で日本人みんながそろって賢くなってしまったんです。欲望と欲求とは違うと思うんですが、英語のwantとneedの違いと言ったらいいかな。衣食住はneedであるけれども、そこから一歩進んだ、でも芸術ではない、たとえばしゃもじでも最高のものをつくろうという方向に進んでいった。ただご飯をよそるだけなら木ベラでいいじゃないかという考えも成り立つけれど、 日本人のつくるしゃもじの曲線の美しさ。あくまでも実用性を追求しながら、そこに美を生み出す。

 儒教にがんじがらめになっている朝鮮では、手足を動かす仕事や肉体労働は下層階級と奴隷のするものだとみなされ、職人も知識階級の貴族から差別されていた。それが日本では褒められ、尊敬されるから、来日した陶工なんかは感激してみんな帰化してしまった。だから彼の地では優秀な職人がいなくなったし、育たなかった。いまでも中国や朝鮮のものづくりの技術は悲惨極まりない。ソウルの南大門の復元工事が終わって記念式典を開いたと思ったら、その直後から塗装がはがれおちたり、柱があちこちひび割れしたりというので、韓国の担当省庁が謝罪したというニュースが最近ありました。日本の接着剤を使ったせいだとか何とか言い訳していたけれど、日本人から見たら話にならない。ちょっとひどすぎるね。

信長と戦国を独自の視点でブラックかつシュールに
描いたシリーズ第三弾『新・信長記 地』
(PHP研究所)
 刃物にしても、ドイツのゾーリンゲンが日本の刃物にはかなわないから、刃の部分は日本がつくり、柄の部分は自分たちでつくって合体させて商品にするようになった。これは物品におけるグローパリズムと言えるかもしれないけれど、やはり日本製は日本製。日本の職人の技術というのは 世界でも突出しています。

 余談ですが、グローパリズムの時代だなんて騒いでいる連中はどうかしている(笑)。世界のさまざまな文化を一つの基準の下に置くなんでできるわけがない。文化・文明というのは、慣習が日常化していくなかで残ったものが民族や地域に根ざし、それがまた時代とともにあるものは捨てられ、あるものは揉まれて残っていく、それを繰り返して育まれていったものでしょう。

 その中心となるものは言語ですよね。そうすると、言語を選択する以上は、その国ないし地域の文化を守ること、つまり保守以外にあり得ない。「革新」というのなら言語も新たにつくったらどうだということになる。ところが、これがつくれない(笑)。

 私が若いころにエスペラント語という人工的な“世界共通語”がもてはやされて、これからはエスペラント語だって勉強している友人が二、三人いた。最近、そのうちの一人にバッタリ会ったら、本当に時間の無駄だったと後悔していた(笑)。それはブラッドベリとかSFエンターテインメントの世界の話なら面白いんですよ。だけど、それを現実にやろうとすると、ちょっと無理がある。

 話を戻すと、世界史上でも奇跡的な、知恵にひいでた日本人という賢い国民ができてしまった。すると、そこから何が生まれるかといえば、民主主義的なものなんです。民主主義というのは非常に欠陥のある制度だけれど、現在のところ、これに代わるものがない。チャーチルも、「民主主義は最悪だけれど、ほかにないからこれを選択するしかない」と言っています。ですから、これを採用するにはよほど民度が高くなければならない。 実は民主主義をいちばん理解していたのはヨーロッパ人ではなくて、日本人なんです。

 幕末に日本にもやって来た西洋列強は、中国にはアへンを売りつけ、アジアを植民地化して、原住民から搾り取るだけ搾り取ることしか考えず、極悪非道の限りを尽くしたでしょう。日本人はすでにして高度な倫理観を手にしていたから、異民族に対してあんなひどいことはしていない。
『新・信長記 地』より
封建制度のなかった国


封建制度のなかった国


 中国にちょっと触れますとね、紀元前二二一年、秦の始皇帝が即位したときにあの国の運命が定まってしまいました。始皇帝は封建制を廃止して、皇帝による中央集権制を敷いた。私は封建制の味方というわけではありませんが、ハシカみたいなもので、いいか悪いかは別にして、これを通過しないと国と国民が賢くならんのですよ。封建制度がなかったから、中国人、朝鮮人のメンタリティは古代からほとんど変わっていない。中華思想というのはそう考えても普通じゃありません。それは封建制度をやめてしまったからです。

 アメリカにも封建制度はなかった。ですから、よく目をこらして見ればアメリカと中国はそっくりですよ。正面からは見えない尻尾がつながっている双生児ではないかと思うくらい。「オブ・ザ・ピープル、バイ・ザ・ピープル、フォア・ザ・ピープル」の「ピープル」を「人民」なんて訳すから勘違いする。「ピープル」は「アメリカ人」のことです。つまり「アメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のための政治」、インディアンを皆殺しにし、アフリカ人を奴隷にしたアメリカ人のための政治なのです。

 ローマがカルタゴを滅ぼしたとき、二度とカルタゴが復活しないように都市を焼き尽くして草木も生えないよう土地に塩をまいたという話があるけれど、これはアメリカが敗戦国日本に対してやったことと驚くほどよく似ていますね。

 もうずいぶん前のことだけれど、いちばんおかしな犯罪は銀行強盗と贋札だって阿佐田哲也とゲラゲラ笑ったことがある。金がない。じゃあ、銀行へ盗りに行こう、あるいはつくってしまおう。この妙に短絡的な発想は、非常に中国人的なんですよね。綿密な計画を立てて銀行からまんまと金を盗めるくらいなら、もっと別のことができるだろうし、贋札をつくれるほどの技術と能力があれば、ほかにもやることがあるだろう(笑)。

 彼の国では以前、段ボールを餃子の具に入れたという“事件”がありましたが、彼らは人工卵までつくっているでしょう。信長みたいに「天下一!」と褒めてやらないから、中国人は何かしたいわけですよ(笑)。

 視野狭窄になると卵しか見えないけれど、そもそも卵というものは、庭があって鶏がいて、餌があって、太陽と水があって初めてできるものでしょう。昔は中国人もわかっていたはずですけどね。それが共産党によって──つまりは鄧小平の話になるんですけれど、彼は「先に豊かになれる者から豊かになって、遅れた者に手を指し伸べよ」と言った。これではダメなんですよ。現に、豊かになった者は落伍者を助けるどころか、金を持って国外に逃げてしまった(笑)。倫理観を教えるのが先でしょう。
「死にとうない」


「死にとうない」


 武士道やら世界史の断片みたいなことを話したのは、要するに、「タバコごとき」ということなんですよね。タバコだけじゃない、戦争ごとき、国家ごとき、ぜんぶ「ごとき」なんです。つまり、「断定はできません」ということです(笑)。あらゆることについて断定できるのは神だけなんですよ。では、神はいるのかと問うたら、その瞬間に神はいないと気づく人は気づくはずです。言語で問うているわけですから。

 弘法大師の伝えた「真言」とは、仏の真実の言葉という意味ですから、つまり「言語前」ということです。聖書は「まず言葉ありき」というところからスタートして、言語以前の状態をなかったことにしている。これはずるい。日本人はいち早く気がついていたんですよ。宮本武蔵も気がついた。武蔵ごときがですよ(笑)。

 武士道のすごさは、民族ではない、人としての生き方を説いているところにあります。山本常朝の「葉隠」は鍋島藩士の心得ということもあって、視野狭窄に陥っているところはありますが、本質を抽出すれば、要は覚悟の書です。

 一休宗純が息を引き取るとき、弟子が「最期の言葉を聞かせてください」と耳を近づけたら、ひと言、「死にとうない」って言った(笑)。これは作り話かもしれませんが、一体和尚は正月にしゃれこうべを杖にのせて、「正月は冥土の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と詠ったくらいシニカルな人ですから、一休さん最後のブラックユーモアととるべきでしょう。要するに「死にとうない」というのは「だから、どうした」ということですね。

 ですから、タバコが体にいいか悪いかという設問を解くカギは、副流煙がどうの、肺がんがどうのという、そんな議論の周辺にはないんですよ。万巻の書を読み、思索し、さまざまな経験をしたあげく、首うなだれて「人生ごとき」とつぶやく──そういう心境に至ったら、健康の意味を問うこと自体、もはや無意味になる。

 ただ、嫌煙を主張する人たちは、とにかく健康に悪いんだ、タバコの煙が嫌いなんだ、匂いがいやなんだからやめろとヒステリックになりがちでしょう。だけど、そうやって断定するのは子供の駄々と同じなんですよ。「いやといったらいやなんだい」って子供が駄々をこねたら、もうブン殴るしかないわけですが、大人ではそうもいかない(笑)。そんなに厚化粧して、おまえのほうが匂うだろうがって言いたくもなるけど、ケツまくるのはやはり下品ですから、避けるしかない。そうしないと袋叩きにあう(笑)。

 要は、あたりまえのことですが、すべての軸は自分にある。面白がるのも自分だし、怒るのも自分なわけですよね。そうすると、怒るって何だろう、叱るって何だろう、他者に道を説くとはどういうことだろうという議論に立ち返ってしまう。だからすべては天に対しての独り言にすぎない。

 そうすると、アメリカ大陸原住民のタバコの儀式の話に戻りますね。これは宗教儀式なのであると。健康とか何とかとは話がまったく違う。神との交信をしているんだと。そういう意味ではタバコ問題と靖國問題はよく似ています。中国や韓国は「靖國に行くな、行くな」と騒ぐ。これを最初に問題化して火をつけた朝日新聞はノルウェーの女首相みたいな存在ですね。

 己を疑ったことのない人たちが、嫌煙運動に奔走する。日本史にも世界史にもそういう例は山ほどあるにもかかわらず、それに気がつかないということは本を読んでいない、あるいは深くものを考えたことがない。いい友だちもいなかったから、それを思いやることもなかった気の毒な人たちです。無残やなというしかない。

 山本夏彦さんは「正義ほどやっかいなものはない」とおっしゃっていましたが、正義自体はいいんです。ところが、一途に思い込んだときには断定が入る。それが大きな誤りなんです。

 お前だって、「断定はいかん」と断定しているじゃないか、どうするんだと言われたら、ウフフと笑って逃げるか、“ダンテイの新曲”なんちゃってダジャレでごまかすしかありませんが(笑)。

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