「死にとうない」


 武士道やら世界史の断片みたいなことを話したのは、要するに、「タバコごとき」ということなんですよね。タバコだけじゃない、戦争ごとき、国家ごとき、ぜんぶ「ごとき」なんです。つまり、「断定はできません」ということです(笑)。あらゆることについて断定できるのは神だけなんですよ。では、神はいるのかと問うたら、その瞬間に神はいないと気づく人は気づくはずです。言語で問うているわけですから。

 弘法大師の伝えた「真言」とは、仏の真実の言葉という意味ですから、つまり「言語前」ということです。聖書は「まず言葉ありき」というところからスタートして、言語以前の状態をなかったことにしている。これはずるい。日本人はいち早く気がついていたんですよ。宮本武蔵も気がついた。武蔵ごときがですよ(笑)。

 武士道のすごさは、民族ではない、人としての生き方を説いているところにあります。山本常朝の「葉隠」は鍋島藩士の心得ということもあって、視野狭窄に陥っているところはありますが、本質を抽出すれば、要は覚悟の書です。

 一休宗純が息を引き取るとき、弟子が「最期の言葉を聞かせてください」と耳を近づけたら、ひと言、「死にとうない」って言った(笑)。これは作り話かもしれませんが、一体和尚は正月にしゃれこうべを杖にのせて、「正月は冥土の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と詠ったくらいシニカルな人ですから、一休さん最後のブラックユーモアととるべきでしょう。要するに「死にとうない」というのは「だから、どうした」ということですね。

 ですから、タバコが体にいいか悪いかという設問を解くカギは、副流煙がどうの、肺がんがどうのという、そんな議論の周辺にはないんですよ。万巻の書を読み、思索し、さまざまな経験をしたあげく、首うなだれて「人生ごとき」とつぶやく──そういう心境に至ったら、健康の意味を問うこと自体、もはや無意味になる。

 ただ、嫌煙を主張する人たちは、とにかく健康に悪いんだ、タバコの煙が嫌いなんだ、匂いがいやなんだからやめろとヒステリックになりがちでしょう。だけど、そうやって断定するのは子供の駄々と同じなんですよ。「いやといったらいやなんだい」って子供が駄々をこねたら、もうブン殴るしかないわけですが、大人ではそうもいかない(笑)。そんなに厚化粧して、おまえのほうが匂うだろうがって言いたくもなるけど、ケツまくるのはやはり下品ですから、避けるしかない。そうしないと袋叩きにあう(笑)。

 要は、あたりまえのことですが、すべての軸は自分にある。面白がるのも自分だし、怒るのも自分なわけですよね。そうすると、怒るって何だろう、叱るって何だろう、他者に道を説くとはどういうことだろうという議論に立ち返ってしまう。だからすべては天に対しての独り言にすぎない。

 そうすると、アメリカ大陸原住民のタバコの儀式の話に戻りますね。これは宗教儀式なのであると。健康とか何とかとは話がまったく違う。神との交信をしているんだと。そういう意味ではタバコ問題と靖國問題はよく似ています。中国や韓国は「靖國に行くな、行くな」と騒ぐ。これを最初に問題化して火をつけた朝日新聞はノルウェーの女首相みたいな存在ですね。

 己を疑ったことのない人たちが、嫌煙運動に奔走する。日本史にも世界史にもそういう例は山ほどあるにもかかわらず、それに気がつかないということは本を読んでいない、あるいは深くものを考えたことがない。いい友だちもいなかったから、それを思いやることもなかった気の毒な人たちです。無残やなというしかない。

 山本夏彦さんは「正義ほどやっかいなものはない」とおっしゃっていましたが、正義自体はいいんです。ところが、一途に思い込んだときには断定が入る。それが大きな誤りなんです。

 お前だって、「断定はいかん」と断定しているじゃないか、どうするんだと言われたら、ウフフと笑って逃げるか、“ダンテイの新曲”なんちゃってダジャレでごまかすしかありませんが(笑)。