タバコを止めようとおもってはいけない-大学喫煙今昔譚

『コンフォール』 愛煙家通信 No.10 2014年夏号

読了まで14分

杉原志啓(音楽評論家、学習院女子大学講師)

 二十代後半からほぼ毎晩ずっとビールを大量に呑みつづけてきた。幸か不幸か、この間中断を余儀なくされるほどの病を得たことは一度もない。そのビールのおかげで、とわたしはおもうんだが、中年さえ通過の今でもほとんど毎晩八時間以上爆睡している。むろん仕事のオフの日ともなれば、たいていビールと共に二度寝するんで、十数時間は夢うつつとなっている(子供時分からふる里山形庄内の方言で“ネブリコキ”といわれていたくらいだから、かつてはもっと眠りこけていたたはずだ)。

 自慢しているわけではない。また、お断りしておくが、そんなことをかねて意識的に――つまり、健康のために睡眠を心がけているのでもない。アルコールが好きでつよいのも含め、要するに生まれつきそういうタチなのだ。

 もうひとつ、これも健康志向でもなんでもなく、若いころからずっと朝型で寝つきがはやい。なにしろ、生家がもの心ついたころから従業員三十人ほどのトーフ工場で、家族はじめ誰もかれも朝がはやい。つまり、これもやはり生まれつきによるとしかいいようがない。

 もろん、床につけない非常時もある。今でいえば、原稿の締切りがたてこんでいるような日だ。そういう時はしかし、夕暮れどきのはやい時間からビールをやりだし、七時には布団にもぐりこんで、いわゆる丑三つ時に起床してキーボードへ向かうようにしている。そんなピンチの日も含め、起床するとまずはトイレへ駆け込み、かねて泥のような快い眠りへ導いてくれる前夜の液体の残滓を放出。たいてい寝床へもどってあぐらをかく。それから就寝まえに枕頭へセットのペットボトルの水を呑み干し、これまたあらかじめ準備の灰皿を足元に寄せて、おもむろにショート・ホープへ火をつける。むろんうつらうつらしたままでのこの一服、ことのほかうまい。

 そのおり、このところなぜか若いころ読んだ山口瞳のエッセイの一節がおもいうかぶ。すなわち起床直後、まだ全身が覚醒しきらないままくゆらせる紫煙はきれいでうまいという、まことにもっともなタバコの真実を。
タールの害とストレスの害

タールの害とストレスの害


 いまひとつ、やはりこのところちょくちょく脳裡へうかぶ五木寛之の一文がある。すなわち、敗戦後十三歳の夏からタバコを吸っていたけれど、あるとき呼吸が苦しくなってきて、以来まったく吸っていないというかれいわく、不思議なもので、タバコを吸う人がはやく死ぬとは限らない。ヘビースモーカーが肺ガンになっても、自業自得とおもえば納得がいく。若いころから一口も吸わなかった人が肺ガンになったときは、さぞかし不本意なことだろう。ただ、「努力して禁煙できた人を、私はエライとは思わない。そういう人は本来はタバコに縁のない人だったのである。病気が治らないのと同じように、タバコは止められない」

 で、とりわけわたしの目ざめの一服時に点滅するのは、さらにかれいわく、タバコは止めようとおもわないことだ。縁がなければ、いやでもやめる。やめないということは、十年か五年、命をちぢめて楽しいほうを選んだのだから、後悔しないほうがいいとのべ、かく説いているところだ。

 「一服おおきく吸って、フーッと長く深く吐く。おのずと腹式呼吸になっていると思えば気持も晴れるだろう。自分はいけないことをしている、とくよくよしながら吸うのが最悪なのだ。

 タバコも酒も、ときに緊張やストレスから人を解放する。タールの害と、ストレスの害とをはかりにかけて、『自分はこちらを選んでよかった』と安心すればよい。

 ちなみに、私はタバコを吸わないが、つれあいは医者だった人だけに、覚悟して楽しげに吸っている。そんなスモーカーは、見ていて気持ちがいいものだ」

 これまたまことにもっともなこの一節を含む五木の『養生の実技――つよいカラダでなく――』、イチイチくどいようだが、これも健康志向から感心、かつ想起されるわけではない。青春のころからわたしは、五木文学の熱心な愛読者のひとりで、これだって近年かれが盛んにやっている仏教論や人生論の一説として同感しているにすぎないのだから。

 ところで、この一節がよぎるたび、必ずといってよいほど連想してしまうことがある。なにかといえば、それがすなわち、ながくわたしに本読みの手ほどきをしてくれた亡き思想史家坂本多加雄のことだ。
師・坂本多加雄の思い出

師・坂本多加雄の思い出


 十年ほどまえ、唐突なかたちで美しい桜の花のように多くの人に惜しまれつつ五十二歳の若さで逝った坂本は、大のタバコ好きだった。往時ひとりしかいなかった弟子のわたしとの研究室でのゼミナールでは、それだからつねに師弟共どもプカプカ、スースー。それがあるとき突然、理由は教えてくれなかったんだが(最晩年に突然発症の深刻な病による禁煙でなかったことだけは確かだ)、師のほうがタバコを止めるという。

 むろんこちらは一瞬がっかりだったんだが、「君はこれまでどおりでいいぞ」と坂本。それで以後ちょっとは遠慮するようになったけれど、やはりときおりは一本火をつける。すると三本に一度くらい「ひとつもらえるかな」と、かれの手がわたしのショート・ホープの箱へ伸びてくる(坂本の愛飲銘柄はセブンスターだったにもかかわらずだ)。そうして二本に一度が、結局そのうち一本とりだすたびに「ひとついいかな」というくり返しになって、とうとうわたしは、レクチャーを受ける際はもとより、かれと会える日は、あらかじめ一箱別に購入。いつも研究室で授業のまえに坂本へそれを手わたし、ニヤリかれが口元を綻ばせるパターンとなったのだった。

 かれはしかし、それから突発的な死の病にみまわれるまで、喫煙と断続的な禁煙をくり返しているようだった。そこでわたしは、今もしばしば大マジメにおもうのである。五木寛之がいうとおり、やはり「タバコは止められない」んだろう。同時にだとしたら、およそなんであれ物事に怯(ひる)むとか臆するなんてことのない快男児だったかれが、いったいなにゆえにタバコを止めようとおもい、しかも禁煙を口にして以来、わたしからのもらいタバコをどこかしら「くよくよしながら吸う」感じがあったんだろう。そして、もしやずっと「楽しげに吸っている」んであれば、あんなに立派な先生があんなことにならなかったのではなかったかとも(ちなみに、坂本を突然の死にいたらしめた病は肺ガンではない)。そしてまた、だからこそそれからというもの、わたしはビール同様、タバコは絶対止めようとおもわないことにして、むしろもっともっと「楽しげに吸っている」ようにするんだと決意したのであった。

 実際、今でもタバコはビールのごとく楽しいし、例の起きぬけをはじめ、いつだってうまい。

 しかしながら、本誌読者なら百も承知二百も合点のところだろう、「タバコはうまい」なんて、今やそれ自体公共の場で一切まったく口にできないほど「禁煙ファシズム」が猖獗(しょうけつ)を極めている。ということで、いささか哀しい前フリはこのくらいにして、ここからその異様にしてどこか喜劇的な世の流れを、もっぱらおのれの見聞してきた大学に関連するそれにスポットをあてて回顧していこうとおもう。
「煙たいんだよ」

「煙たいんだよ」


 さて、坂本多加雄のもとでわたしが学位を取得したのは平成五年。その翌年からジャスト一年坂本のつとめる学習院大学へ出講となった。九〇年代初期のこのころは、上記の先生の研究室はむろん、講師控室でも灰皿がいたるところにあって、タバコはまったくフリーだったと断言できる(現在は全国すべての大学のキャンパスで喫煙オッケーの場所は一~二箇所。個人研究室はすくなくとも建前上はどこも禁煙で、建物の内部全体もほとんど喫煙室皆無が常態であり、仮にあったとしてもそんなものは絶滅しようという声が烈しく飛び交っているのはいうまでもない)。

 ついでその四年後の平成十年、短大から四年制に衣替えの学習院女子大学と地元の酒田短期大学へ、いずれも思想史と音楽がらみの科目で出講するようになった(ついでながら、この数年まえからわたしは専門の思想史研究を継続の一方、音楽評論活動を生業として開始している)。女子大はむろん、四年後に中国人留学生を過剰に受け入れたせいでつぶれてしまう田舎の短大キャンパス共ども、このころでもいまだどこでも自由にタバコを吸えたし、周囲のちょっと見苦しかった滑稽な禁煙パイポ・ブームを別にすれば、嫌煙キャンペーンの雰囲気もゼンゼン体感したことはない。したがって地方大学へ通うための新幹線でも在来特急でも喫煙車両は健在だった。

 ただ、二十一世紀が真近に迫りつつあったこのころ、ほどなく到来する空前の禁煙ファッショ・ムーブメント激発の予兆は幾度か感得させられてはいる。

 一例をあげておこう。ある週末の雨あがりの午後、神田駿河台の明治大学はす向かいにある古書会館へ足を運んでいたときのこと。むろん千代田区の公道全面禁煙なんてころではない。その日はまた、案外人どおりがまばらだったことをよく憶えている。靖国通りの交差点へ向かう大通りにそった歩道を、それまでの電車で我慢のタバコを心地よくくゆらせながら足を進めていた。

 と、古書会館にあと数メートルというあたりで、真後ろから不意にポンポンと肩を叩かれ、ふり返ると灰色のハーフ・レイコートをまとう三十がらみの男が、いきなり片手をふりながら「煙たいんだよ」という。近年チャラ男とかいわれているタレントみたいな風貌だったその男は作り笑いのような微笑を浮かべていた。しかしその目がカラスのそれのごとく不気味にランランと光っている。それでわたしはちとギョッとして、おもわず「あっ、スミマセン」と頭をペコリ。そうしてしばし、そのままゆるやかな坂道を足早にスタスタ下っていくチャラ男のうしろ姿をみつめながら、憮然とした。つまり、歩行者もまったくすくないんだから、煙いならこちらと離れて歩けばいいだろうにと胸のなかで毒づきつつ、「それにしてもなんだかヘンな時代になってきたもんだな」と。

 しかしいうまでもなく、やがてもっと徹底的におもい知らされるように、この件はたしかに市井における「禁煙ファシズム」暴発の前兆体験のひとつでしかなかった。
明治以来の「官尊民卑」

明治以来の「官尊民卑」


 平成十三年、先述の中国人学生の事案でつぶれかかっていた短期大学と入れ替わりで、今度はやはり地元で新設のいわゆる公設民営方式の東北公益文科大学からわたしの専門をひとつにかけあわせたような「音楽と思想」なる講座を委嘱された。同時にこの年は、上野にある東京芸術大学からも、かねて敬愛のジャズ評論家岩浪洋三さんの後釜として「ジャズ・ポピュラー音楽」という科目も担当するようになる。つまりわたしは、この年から女子大を含むいくつもの学校を駆け回るけっこう気ぜわしい文字どおりの兼任講師となったのだった。

 嫌煙運動すなわち「禁煙ファシズム」のマグマが胎動しだしたのも、ちょうどそのころからだったとわたしはおもう。また、そのマグマが強烈な赤い炎を吹きあげだしたのは、疑いもなく平成十五年春に施行される「健康増進法」という奇怪な法律の出現にあったとも。

 たぶん当時ほとんどの日本人が、とんと気づかなかったといおうか、知っていたとしてもさしたる関心も示さなかったであろうこの法律は(かくいうわたしも大分時間がたってからこの法の存在を知ったんだが)、そもそも栄養増進法の改訂ヴァージョンとしてできあがったものだった。ために同法条文のほとんどは、食品の栄養に関わっている。今おもえばしかし、問題はその第二十五条だった。では、いまだ一瞥(いちべつ)もしたことのない読者のためにその全文を掲げておこう。

 「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙(室内又はこれに順ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わされることをいう。)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない」

 みてのとおり、ラストに「講ずるように努めなければならない」とあるごとく、この条文を含む「健康増進法」に強制力はない。にもかかわらずこれによって、映画のタイトルではないが、まさしくある朝突然にといった趣で、まずは東京の小田急、京王といった民間私鉄から軒並み駅構内を全面禁煙。地上駅の喫煙灰皿も撤去されてしまう。したがって官公庁に準ずるみたいな意識の私立の学校もお上からのこの「お達し」にたちまち叩頭(こうとう)平伏となってしまう(なんのことはない、この問題でもすかさず民間のほうから明治以来の「官尊民卑」を助長しているのだ)。

 わたしも含むわが国の愛煙家が、凄まじい「禁煙ファシズム」にさらされることになるのはそれからのことである。

すぎはら・ゆきひろ 1951年、山形県生まれ。学習院大学大学院政治学研究科博士課程修了。音楽評論家。現在、学習院女子大学講師。著書に『蘇峰と「近世日本国民史」』『おもしろい歴史物語を読もう』、共著に『新・地球日本史1』、訳書にヴィン・シン『評伝徳冨蘇峰』、音楽評論家としての著書に『イチローと村上春樹は、いつビートルズを聴いたのか』などがある。

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